削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
19行目:
 
=== 鎌倉時代 ===
本格的な武家政権は、[[源頼朝]]が[[鎌倉幕府]]を開いた事により始まる。頼朝は、当初国衙の主として[[朝廷]][[公家]]に追い使われていた東国武士集団反乱の旗手として登場する。しかし平家打倒の[[治承・寿永の乱]]を経て、[[寿永]]2年/[[治承]]7年([[1183年]])に[[後白河天皇|後白河院]]から東国における統治権的支配権([[東海道]]・[[東山道]]の実質的支配権)を認める[[寿永二年十月宣旨]]を与えられる。そして[[近衛大将|右近衛大将]]に任じられるがすぐに辞任し鎌倉に戻り翌[[建久]]2年([[1191年]])正月に前右大将として「政所吉書始」を行い家政機関を設置する。これが発展し[[鎌倉]]を本拠とした地方政権を樹立し、東国を中心に[[守護]]と[[地頭]]の設置を朝廷に認めさせる。その武家権力としての独立性を保つ機構を作るために[[近衛大将]]より格下の[[征夷大将軍]]に任ぜられ、その権力機構として[[幕府]]を開いた。この時点ではまだ東国中心の地方政権であったが[[天皇]]・[[太上天皇|上皇]]と並ぶ武家権力が誕生した。頼朝とその子らの源家は三代で滅びるが、外戚でもあった[[御家人]]の[[北条氏]]は、[[摂家]]から[[藤原頼経]]を迎えて将軍へと就任させ以後「[[宮将軍]]」を続け、自身は[[執権]]として政権を握る。幕府は[[承久の乱]]で鎌倉の武家権力が朝廷権力に勝利して、旧平家領にも守護地頭を起き支配権を全国に広げ、ついに初の全国統一の武家政権となった。そして武家政権は次第に朝廷へ介入し、各地で地頭は[[国衙領]]や[[荘園]]へ浸食し、武家政権は徐々に全国への支配を強めた。
 
鎌倉時代後期になると有力御家人との権力闘争を勝ち抜いた北条氏の専制が強化される一方で、[[元寇]]なども原因となり、多くの[[御家人]]が経済的、政治的に没落するようになり、鎌倉幕府に対する不満が高まっていった。これが[[後醍醐天皇]]による倒幕と結びつき、鎌倉幕府は有力な御家人などにも離反され、滅亡に至るのである。