「グレゴール・ヨハン・メンデル」の版間の差分

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|caption = Gregor Johann Mendel
|birth_date = [[1822年]][[7月20日]]<!-- {{生年月日と年齢|||}} -->
|birth_place = {{AUT1804}}, {{仮リンク|ヒンチツェ (ヴラジュネー)|label=ハインツェンドルフ・バイ・オドラウ|en|Hynčice (Vražné)}}
|death_date = [[1884年]][[1月6日]](満61歳没)
|death_place = {{AUT1867}}, [[ブルノ|ブリュン]]
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|nationality = <!-- 国籍 -->
|field = [[遺伝学]]
|alma_mater = [[{{仮リンク|パラキー大学]]オロモウツ|label=オルミュッツ大学|en|Palacký University, Olomouc}}、[[ウィーン大学]]
|known_for = [[メンデルの法則]]の発見
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|footnotes = <!-- 備考 -->
}}
'''グレゴール・ヨハン・メンデル'''({{lang-de-short|Gregor Johann Mendel}}、[[1822年]][[7月20日]]<ref>しばしば[[7月22日]]が[[誕生日]]とされるが、22日は[[洗礼]]を受けた日であり、誕生日は[[7月20日]]である。 [http://www.mendel-museum.org/eng/1online/room1.htm Biography of Mendel at the Mendel Museum]</ref> - [[1884年]][[1月6日]])は、[[オーストリア帝国]]・[[ブルノ|ブリュン]](現在の[[チェコ]]・[[ブルノ]])の[[司祭]]。[[植物学]]の[[研究]]を行い、[[メンデルの法則]]と呼ばれる[[遺伝]]に関する[[法則]]を発見したことで有名。[[遺伝学]]の祖。
 
当時、遺伝現象は知られていたが、遺伝形質は[[交雑]]とともに[[液体]]のように混じりあっていく('''混合遺伝''')と考えられていた。メンデルの業績はこれを否定し、遺伝形質は遺伝粒子(後の[[遺伝子]])によって受け継がれるという'''粒子遺伝'''を提唱したことである。
 
== 生涯 ==
[[オーストリア帝国]]の{{仮リンク|オドリー|label=オドラウ|en|Odry}}近郊のハインツェンドルフ(Heinzendorf bei Odrau, 現在の[[チェコ]]・[[モラヴィア]]、{{仮リンク|ヒンチツェ、[[母語]]は[[ドイ (ヴラジュネー)|label=ヒンチ語]]圏ェ|en|Hynčice (Vražné)}})に小自作農の子として生まれ、ヨハンと名付けられる。[[オロモウ母語]]は[[ドイ]]であった。[[学校オルミュッツ]]大学で2年間学んだ後、[[1843年]]に[[聖アウグスチノ修道会]]に入会し、[[モラヴィア]]地方[[ブルノ|ブリュン]]の[[修道院]]に所属、[[修道名]]グレゴール(グレゴリオ)を与えられる。
 
メンデルの所属した修道院は[[哲学]]者、[[数学]]者、[[鉱物学]]者、[[植物学]]者などをし、学術的な研究や[[教育]]が行われていた。[[1847年]]に司祭に[[叙階]]され、[[科学]]を独学する。短期間[[ツナイム]]([[ズノイモ]])の[[ギムナジウム]]で[[数学]]と[[ギリシア語]]を教える。1850年、[[教師]](教授)の資格試験を受けるが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となった。
 
[[1851年]]から2年間[[ウィーン大学]]に留学し、[[ドップラー効果]]で有名な C.[[クリスチャン・ドップラー|ドップラー]]から[[物理学]]と[[数学]]、F. [[ウンガー]]から[[植物]]の[[解剖学]]や[[生理学]]、他に[[動物学]]などを学んだ。
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その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの[[表現型]]に注目し、数学的な解釈から、[[メンデルの法則]]と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が[[独立性|独立]]のときのみ成り立つものであるが、メンデルは[[染色体]]が対であること([[複相]])と共に、独立・[[遺伝的連鎖|連鎖]]についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの[[表現型]]は、全て独立遺伝で 2n=14であるからである<ref>後世の研究により7つの形質の対応する遺伝子のうちいくつかは連鎖していることが示されているので,原文のような憶測はもはや成り立たない.独立の法則の導出に使われた形質の組み合わせは,運良く独立の相同染色体に載っていたか,もしくは連鎖していたにもかかわらず距離が離れていたためかなりの確率で交差を起こし,あたかも独立であるかのように見えたかのどちらかであると考えられる;参考文献,Mendelian controversies: a botanical and historical review. Fairbanks and Rytting, American Journal of Botany,2001;88:737-752</ref>。
 
この結果は口頭での発表は[[1865年]]に[[ブリュン自然協会]]で、論文発表は[[1866年]]に『ブリュン自然科学会誌』で行われた。タイトルは「Versuche über Pflanzen-Hybriden」(=植物雑種に関する実験)であった。<!-- 註:英語などのラテン文字を使う記事では、書名などはイタリック体であるが、日本語では、「地の文」との区別が自明的に行われているので不要。またイタリック体にすると、読みづらくなる。-->さらにメンデルは当時の細胞学の権威[[カール・ネーゲリ]]に論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲルから、ネーゲルの研究していたミヤマコーゾリナによる実験を勧められ、研究を始めたがこの植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから交配実験から遠ざかることになった。
 
1868年に修道院長に就任し多忙な職務をこなしたが、1870年ごろには交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった<ref>『[[天才たちの科学史]]』杉春夫、[[平凡社新書]](2011年)</ref>。