「酒井忠績」の版間の差分

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京都市中警備の功績により、[[文久]]3年([[1863年]])、[[老中]]首座となる。老中就任後は兵庫開港をめぐって朝廷対策に奔走する一方、年末に将軍[[徳川家茂|家茂]]の上洛が決定すると、[[水戸藩]]主[[徳川慶篤]]、[[忍藩]]主[[松平忠誠 (武蔵国忍藩主)|松平忠誠]]とともに江戸[[留守居]]役を命じられる。ちょうど1年後に老中職を退いたが、8ヶ月後には大老となった。そして[[長州征討|第二次長州征伐]]の事後処理、幕府軍の西洋式軍制の導入など、幕政改革に尽力した。一方、藩内で台頭してきた尊王論に対しては「徳川家譜代の臣として幕府と存亡をともにするのが道理である」として[[元治]]元年([[1864年]])に重臣[[河合屏山]]を幽閉して多数の尊王派を粛清する「甲子の獄」と呼ばれる事件を起こしている<ref>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P176-177</ref>。
 
慶応3年([[1867年]])2月に隠居し、養子の弟[[酒井忠惇|忠惇]]に家督を譲る。戊辰戦争の際に鳥羽・伏見の戦いの責任を問われた忠惇は江戸で蟄居、同じく江戸にいた忠績も謹慎をしていたが、慶応4年([[15681868年]])5月5日に忠績は江戸城の新政府軍大都督府に対して、徳川家の処遇への不満ととともに酒井家は徳川家の家臣であり徳川家との主従関係を断ち切って朝廷に仕えるのは君臣の義に反する為所領を返上したいとする嘆願書を提出してしまう。新しく藩主となった[[酒井忠邦]]は新政府の命令を受けて忠績の翻意を促すが忠績はこれを拒絶、忠惇も忠績の考えに賛同する有様であった。このため、姫路藩は新政府に迫られて佐幕派の処分に乗り出し、忠績・忠惇側近を粛清した。同年9月14日、弟の[[駿府藩|静岡藩]]士[[酒井忠恕 (静岡藩士)|酒井忠恕]]方への同居を認められる<ref>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P181-185</ref>。明治13年([[1880年]])11月、終身華族に列する。明治22年([[1889年]])5月、永世華族に列し、[[男爵]]を授けられた。
 
== 経歴 ==