「石田博英」の版間の差分

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|当選回数2 =
|就任日2 = 1976年[[9月15日]]
|退任日2 = 1976年[[12月14日]]
|退任理由2 =
|元首職2 =
58行目:
|当選回数4 =
|就任日4 = [[1960年]][[7月19日]]
|退任日4 = [[1961年]][[7月18日]]
|退任理由4 =
|元首職4 =
|元首4 =
|国旗5 = JPN
|職名5 = [[衆議院|衆議院議員]]第14代 労働大臣
|内閣5 = [[第1次岸内閣 (改造)|第1次岸改造内閣]]
|内閣5 =
|選挙区5 = [[秋田県第1区 (中選挙区)|秋田県第1区]]
|当選回数5 = 14回
|就任日5 = [[19471957年]][[472510日]]
|退任日5 = [[19831958年]][[1162812日]]
|退任理由5 =
|元首職5 =
|元首5 =
|国旗6 = JPN
|その他職歴1 = 第1416-17労働大臣[[歴代の内閣官房長官|内閣官房長官]]
|就任日6 = [[19571956年]][[7121023日]]
|退任日6 = [[19581957]][[671210]]
|国旗7 = JPN
|その他職歴2 = 第16-17代 [[歴代の内閣官房長官衆議院|内閣官房長官衆議院議員]]
|就任日7 = [[19561947年]][[1242325日]]
|退任日7 = 1957[[1983]][[7111028日]]
}}
'''石田 博英'''('''いしだ ひろひで'''、[[1914年]](大正3年)[[12月12日]] - [[1993年]](平成5年)[[10月14日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。労働大臣。内閣官房長官。[[衆議院議員]]。[[勲一等旭日大綬章]]。[[あだ名]]は「バクエイ」(博英の音読みをもとにしている)。
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[[早稲田大学]][[政治経済学部]]に入学し、在学中に恩師で後に早大政治経済学部長となった[[吉村正]]に連れられて[[三木武夫]]の選挙応援をしたことが機縁となり、三木との知遇を得る。石田は、選挙民に嘲笑されてはならないと父親の[[フロックコート]]を借りて、三木を[[自転車]]に載せて街頭[[演説]]に回った<ref>[[小説吉田学校]]にもこのエピソードが記載されている</ref>。この他、学生消費組合に関連し、[[牛込警察署|早稲田警察署]]などに連行されたことや、早大の正門前で[[喫茶店]]を経営し利益を上げたことなどが、学生時代のエピソードとして伝わっている。
 
[[1939年]]、早稲田大学を卒業後、[[中外商業新報]](現在の[[日本経済新聞]])に入社。政治部に配属される。[[上海市|上海]]支局長、政治部次長を歴任。[[1947年]]4月、[[第23回衆議院議員総選挙]]に[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]から立候補し、[[秋田県第1区 (中選挙区)|秋田県第1区]]にて当選を果たす(当選同期に[[田中角栄]]・[[鈴木善幸]]・[[中曽根康弘]]・[[増田甲子七]]・[[中山マサ]]・[[松野頼三]]・[[荒木万寿夫]]・[[原田憲]]・[[園田直]]・[[櫻内義雄]]・[[根本龍太郎]]・[[中村寅太]]など)。[[隠退蔵物資事件]]などを扱う衆議院不当財産取引調査特別委員会理事を務め、[[片山哲内閣|片山]]・[[芦田内閣]]追及の急先鋒として活躍した<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001310127_00000&seg_number=001 日本ニュース戦後編第127号]</ref>。
 
一方で石田は、中外商業新報の編集局長であった[[小汀利得]]の紹介で、[[石橋湛山]]に私淑するようになる。石橋が[[公職追放]]となると、他の政治家が占領軍を恐れて石橋との関係を疎遠にしていく中で、石田は「石橋側近」である事を公言してはばかる事はなかった。秘書であった[[田中秀征]]は、石橋を総理に押し上げた時点で、石田の政治的野心も終わったと証言している。
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石橋の総理退任・政界引退後、しばらくして[[火曜会|石橋派]]は解消し(当時はまだ派閥継承という概念はなかった)、石田は無派閥となる。この間も旧石橋派のメンバー数名をまとめていたこともあり、[[1969年]]の[[第32回衆議院議員総選挙|総選挙]]を機に旧石橋派の[[宇都宮徳馬]]、[[地崎宇三郎 (三代)|地崎宇三郎]]と、石田の秘書出身である[[山口敏夫]]、他派閥と二重在籍の[[島村一郎]]([[島村宜伸]]の父)、[[伊藤宗一郎]]らを加えて石田派([[二日会]])を結成。しかし勢力拡大は進まずわずか2年で解散し、[[1971年]]に[[番町政策研究所|三木派]]に合流する。だが[[1980年]]に三木派が河本派に衣替えするとともに、[[河本敏夫]]との後継者争いに敗れたかたちとなり派閥から遠のいていった。
 
[[1974年]]に党幹事長代理、[[1976年]]に[[三木内閣改造内閣]]の[[運輸大臣]]として三木を支える。三木退陣後の[[福田赳夫内閣|福田内閣]]で4度目の労働大臣を務める。[[1983年]]11月、[[第37回衆議院議員総選挙|次の総選挙]]に出馬することなく政界を[[引退]](地盤は[[参議院|参議院議員]]から鞍替えした[[野呂田芳成]]が引き継いだ)。
 
1993年10月14日死去。{{没年齢|1914|12|12|1993|10|14}}。