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 七十郎の学問はかなり広く深く、儒学を内藤閑斎(以貫)、京都にて陽明学を熊沢番山、江戸にて兵学を小櫃与五右衛門と山鹿素行に学ぶ。一方、深草にて元政上人の徒然草の講義を聞き、文学にも通じていた。幕府老中板倉内膳正重矩の家老池田新兵衛とは同門の学友、その縁で七十郎は重矩に招かれて軍学を講じ、仕官をすすめられたこともある。七十郎は、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節をたっとぶ直情実践の士であった。熊沢番山に学んだ陽明の知行合一の学風をよく受け継いでいたといえる。
 
 
熊沢番山が題を出して、和歌を詠ぜしめた時、七十郎即座に、「心外無物 ちちの花も心の内に咲くものを
知らで外ぞと思ふはかなし」「知行合一 写絵に芳野の花ははかるとも 行かでにほいを如何で知るべき」。
熊沢番山はこの和歌を見るや、わが意を得たりと喜び、真に学士であると誉めたたえた。
 
 
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寛文8年4月28日 、七十郎は処刑されるとき「やい万右衛門、よく聞け、われ報の忠を抱いて、罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば、体も前に附すと聞くが、われは天を仰がん。仰がばわれに神霊ありと知れ。三年のうちに癘鬼となって必ず兵部殿を亡すべし」と云う。万右衛門の太刀が弱くてか七十郎の頚が固くてか、首は半分しか切れぬ。七十郎は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧み「あわてるな、心を鎮めて斬られよ」と叱咤した。万右衛門は気を取り直して振り上げた二度目の太刀で七十郎の首を斬り落としたが、同時に七十郎の体が果たして天を仰いだ。