「テオドロス2世パレオロゴス」の版間の差分

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1407年、同名の叔父[[テオドロス1世パレオロゴス]]の死去に伴い幼少ながらモレアス専制公に就任する。しかし無論実際上の統治は不可能であったので、[[1415年]]には父マヌエルが、[[1416年]]から[[1417年]]にかけては兄[[ヨハネス8世パレオロゴス]]が、それぞれ[[ペロポネソス半島]]を訪問して統治を手助けしている。また、マヌエル2世は息子の助言役として高名な学者[[ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン]](プリソン)を指名し、プレトンはこれに応えてモレアス専制公領再建の為の『建白書』を提出した。これはあまり実行に移されなかったものの、テオドロスは彼の尽力に好意を持ちいくつかの特権贈与でこれに報いた。
 
1417年にはまだ幼い末弟[[ソマス・パレオロゴス|トーマース]]がペロポネソス半島に来訪し、テオドロスはこれを将来の共同統治者として扶養した。1418年以降、自ら政務を執り、[[1421年]][[1月19日]]には[[ローマ教皇]]の親族であったクレオパ・マラテスタと結婚する。これは父マヌエル2世がローマ側に示した東西教会関係改善の一案であった(その他の息子についても[[カトリック教会|カトリック]]君主の娘との婚約を計画していたが、実際に結婚したのは弟[[コンスタンティノス11世ドラガセス|コンスタンティノス]]とトーマースだけであった)。同じ頃、テオドロスは[[エピロス専制侯国|エピロス専制公]]でペロポネソス半島の一部を領有する[[カルロ1世トッコ]]との戦争を有利に推し進めている。
 
テオドロスは高い知性の持ち主であったが、精神的に不安定な面があり、帝位を狙う野心を見せる一方で[[修道士]]としての静謐な生活を希求してもいた。[[1427年]]、彼は兄帝ヨハネス8世に突然の引退と修道士入りを申し出る。これに驚いたヨハネス帝は急遽弟コンスタンティノスを伴いペロポネソス半島に赴くが、彼らが半島に到着した時テオドロスは再び統治への意欲を回復しており、兄弟間の関係は緊張をはらむものとなった。翌[[1428年]]、ヨハネス帝の説得によりテオドロスはコンスタンティノス、及び先に半島に来ていたトーマースと共に統治権を分担する事に同意する。