「マリア・バグラティオニ」の版間の差分

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'''マリア・バグラティオニ'''(Maria Bagrationi, [[1050年]]? - [[1103年]])は、[[東ローマ帝国]]皇帝[[ミカエル7世ドゥーカス]]の皇后。結婚後マリアと改名した。再婚して同じく皇帝[[ニケフォロス3世ボタネイアテス]]の皇后になった。'''アラニアのマリア'''とも呼ばれるため、実母ボレナと混同されやすい。美貌と知性の持ち主として知られ、[[グルジア正教会]]や聖地[[エルサレム]]への寄進をおこなっていた。
 
[[グルジア]]王[[バグラット4世]](1027-1072) 1072年)と2度目の王妃ボレナ(別名アラニアのマリア)の王女'''マルタ'''(Martha)として生まれる。母は[[アラン族]]の出身。
 
[[テオドラ (東ローマ女帝)|テオドラ]]女帝の庇護を頼り、教育を受けるべく、1056年に[[コンスタンティノープル]]へ向かうが、同年のうちに女帝が逝去したため、帰国した。
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夫が将軍[[ニケフォロス3世ボタネイアテス|ニケフォロス・ボタネイアテス]]の反乱により修道院へ引退させられると、マリアは彼と結婚した。先代の皇后と結婚して皇位の安定を謀ることは、当時よく行われたことだった。ニケフォロスとの間には子供ができなかったため、皇帝はミカエル7世の長子コンスタンティノス・ドゥーカスを後継に指名した。
 
ニケフォロスは軍人出身で優しい夫ではなく、元々好きで結婚したわけでもなかったため、マリアはやがて皇位転覆を狙う、10歳近く年下の将軍[[アレクシオス1世コムネノス|アレクシオス・コムネノス]]に心を移すようになった。2人は相思相愛であるとの噂も流れた。
 
当時アレクシオスには9歳年下の、まだ12歳の妻[[エイレーネー・ドゥーカイナ]]がいた。やがて反乱は成功し、ニケフォロスは修道院へ押し込められ、1081年にアレクシオスが即位した。しかし、彼はエイレーネーと離婚し、前皇后マリアと結婚するつもりであったため、皇后となったエイレーネーの戴冠を延期させた。しかしエイレーネーの生家である有力貴族ドゥーカス家と、ドゥーカス家の縁者で軍人貴族であるパライオロゴス家が、新皇帝の仕打ちに待ったをかけた。今回の反乱でコムネノス家に同調したのは、「皇后エイレーネーのためだ。」というのだった。また、[[ギリシャ正教]]では三度目の再婚は禁止されていた。足をすくわれかねない状況に、アレクシオスは考えを変え、マリアとの再婚を断念した。
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[[Category:グルジアの人物]]
[[Category:東ローマ皇后]]
[[Category:バグラチオン家]]
[[Category:1050年生]]
[[Category:1103年没]]