「マーシア王国」の版間の差分

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===ブレトワルダ時代===
[[画像:De_Offa_Dyke.JPG|thumb|{{仮リンク|オファの防塁|en|Offa's Dyke}}。[[フランク王国|フランク]]王[[シャルルマーニュ]]も同様の城壁を築くことを計画したが実行できなかった。またイングランドとウェールズの国境線をほぼ画定した]]
マーシアは8世紀後半にふたりの[[ブレトワルダ]]を輩出した<ref>正確に言えばブレトワルダではない。というのは「ブレトワルダ」という称号を使った本元の資料[[アングロサクソン年代記]]およびその年代記の目録の参考になったと思われる[[ベーダ・ヴェネラビリス]]はことごとくマーシアの覇者を除外している。詳しくは[[ブレトワルダ]]を参照。</ref>。すなわちエゼルバルド (? - [[757年|757]]) と{{仮リンク|オファ (マーシア王)|en|Offa of Mercia|label=オファ}} (?在位:[[757年|757]] - [[796年|796]]) である。エゼルバルドは教会への課税を強化して国力を蓄え、西の難敵ウェセックスを屈服させた。こうしたエゼルバルドの積極政策は内外に敵を多く抱えることになり、エゼルバルドは自らの護衛によって暗殺された<ref>暗殺は相続争いによるもの、とする見解もある。青山、p99.</ref>。つづくオファの時代が、マーシアの絶頂期であった。永年の宿敵ノーサンブリアを屈服させて上位支配権を獲得したのみならず、支配下におさめていた小王国を解体させ、オファの親族や腹心を統治者として送り込んだ。
 
{{仮リンク|オファの防塁|en|Offa's Dyke}}は[[ハドリアヌスの長城]]にも劣らぬオファの歴史的偉業とされる。攻めてくるブリトン人を防ぐためのものか、切り取った地域を守るためのものか、その建設意図は明らかでない。この防塁に関して分かっていることは、すでにあった「ウォットの防塁」を延伸するかたちでイングランドとウェールズの間に築かれた。さらに[[フランク王国]]とも対等な外交を展開し、このように力を示したオファはレクス・アングロルム (Rex Anglorum) 、すなわち全アングル人の王と自ら名乗った。