「曽根崎心中」の版間の差分

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人形浄瑠璃『曽根崎心中』の初演は同年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]([[6月20日]])の[[道頓堀]]にある竹本座での公演であったが、そのときの口上によるとそれより早く[[歌舞伎]]の演目として公演されており、人々の話題に上った事件であったことがうかがわれる。[[宝永]]元年([[1704年]])に刊行された『心中大鑑』巻三「大坂の部」にも「曾根崎の曙」として同じ事件のことが小説の形で記されている。
この演目を皮切りとして、「[[心中物|心中もの]]」ブームが起こった。近松の代表作の1つである『[[心中天網島]]』も[[享保]]5年([[1720年]])に発表されている。
 
またこうした心中もの<!-- は江戸時代末期という閉塞的な時代を背景に (元禄~享保は江戸時代末期ではありません。)-->の流行の結果、来世で二人の愛が結ばれることを誓った心中事件が多発したため、江戸幕府は享保8年([[1723年]])より上演や脚本の執筆や発行を禁止すると共に、心中者の一方が生存した場合は極刑を申し渡し、双方生存の場合は晒し者にしたのち市民権を奪い、心中死した遺体は親族に下げ渡さず一切の葬儀を禁ずるなど、心中事件に対して苛烈な処置を行ったが、その後も[[江戸四大飢饉]]や[[天明の打ちこわし]]といった事件により民衆での心中は流行していた。