「ラオス内戦」の版間の差分

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[[ラオス]]は[[ベトナム戦争]]の交戦国にとって隠れた戦場となっていた。1953年の[[フランス・ラオス条約]]により、ラオスには完全な独立が与えられたが、それから数十年の歴史は、[[スワンナ・プーマ]]殿下らの中立派、[[チャンパーサック王国|チャンパーサック王家]]の[[ブン・ウム]]殿下らの右派、[[スパーヌウォン]]殿下および後の首相[[カイソーン・ポムウィハーン|カイソーン]]らの左派ネーオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)の三派間の争いによって記録された。連合政府を立てようという幾度にもわたる試みの後、最終的に[[ヴィエンチャン]]において「三派連合政府」が成立した。
 
ラオスにおける戦闘には、ラオス区域の支配権を巡って争う[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[タイ王国|タイ]]および[[南ベトナム]]の軍隊が直接的に、あるいは非正規の代理人を通して関与していた。北ベトナム軍は南ベトナム侵攻の通り道となり、かつ最大の戦場となる[[ホーチミン・ルート]]を占領した。二番目に大きな戦闘が起こった場所は、ラオス北部の[[ジャール平原]]およびその周辺であった。
 
[[1975年]]には北ベトナムと[[パテート・ラーオ]]の勝利が明らかとなるが、それは同年の[[インドシナ半島]]における共産勢力の勝利が背景にあった。