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ソロヴェツキー修道院による儀式改革への抵抗について加筆
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ソロヴェツキー修道院の収入源は製塩([[1660年]]代には54カ所の製塩所を有していた)、海産物の販売、仕掛けを用いた狩猟、[[漁業]]、[[雲母]]の加工、[[鉄工業]]、[[真珠]]の加工などであり、これには多数の労働力を必要とすることとなった。
 
[[17世紀]]までにはすでにソロヴェツキー修道院は350の修道士、600から700の召使い、熟練工、小作農民を有していた。[[1650年]]代から1660年代にかけてニーコン総主教([[:en:Patriarch Nikon|Patriarch Nikon]])による改革に反発した[[古儀式派]]の拠点となり、[[1668年]]-[[1676年]]には古儀式派の修道士によってソロヴェツキー修道院における反乱([[:en:Solovetsky Monastery Uprising|Solovetsky Monastery Uprising]])が起きた。[[1765年]]にはソロヴェツキー修道院は総主教および[[教会会議]]直属の修道院となった。
ニーコン総主教([[:en:Patriarch Nikon|Patriarch Nikon]])が始めた儀式改革により、ソロヴェツキー修道院へ[[1657年]]にモスクワから新たな内容の祈祷書が送付されてきた。しかし、修道院の長老会議はその使用を拒否し、古い儀式を堅持する[[古儀式派]]を支持した。その後もソロヴェツキー修道院では従来どおりの祈祷が行われていた。[[1666年]]-[[1667年]]にソロヴェツキー修道院の人々は古い儀式を守るために5通の嘆願書を皇帝に送った。[[1667年]]7月23日に当局は改革支持派のヨシフを掌院に任命したが、修道院は彼を追放し、ニカノールを掌院に選出した。このことは当局側からは公然たる反乱とみなされた。[[1668年]]に政府はソロヴェツキー修道院に軍隊を送ったものの、修道院側からは8年にわたる頑強な抵抗を受けた。この抵抗は当局などから「ソロヴェツキー修道院における反乱([[:en:Solovetsky Monastery Uprising|Solovetsky Monastery Uprising]])」と呼ばれた。[[1676年]]1月18日、内通者の手引きにより政府軍は修道院を占領した。反乱に参加した者はほぼ全員が殺害された<ref>Православные обители России: Путеводитель / Сост. И. Гарькавый. — М. : Правило веры, 1998. С. 131</ref>。[[1765年]]にはソロヴェツキー修道院は総主教および[[教会会議]]直属の修道院となった。
[[画像:Napadka.jpg|200px|thumb|right|クリミア戦争時、艦隊から砲撃を受ける修道院]]
 
ソロヴェツキー修道院は「ソロフキの[[クレムリ]]」(城塞)と呼ばれている。Sumskoyとケミの砦柵を合わせれば、ソロヴェツキー修道院は何ダースもの大砲と強力な駐屯部隊を持った国境に面した要塞に相当した。[[16世紀]]・[[17世紀]]には[[スウェーデン]]による数回の攻撃([[1571年]]、[[1582年]]、及び[[1611年]])を退け、[[クリミア戦争]]に際してはやってきた3挺の[[イングランド]]の軍艦が[[7月6日]]から[[7月7日|7日]]にかけ9時間に渡って修道院に砲撃を加えた挙げ句、得るところ無く退却に追い込まれている。上述のように、修道院は政府軍の攻撃にも8年間耐えた。[[16世紀]]から[[20世紀]]初頭にかけてはロシアの[[専制政治]]や[[正統教義]]に反対した者の[[流刑地]]および北ロシアにおけるキリスト教布教の拠点となっている。修道院は文書や古書の一大書庫も有している。
 
修道院内の庭園はエキゾチックな植物を有し、修道士達の誇るところとなっていた。その中にはチベットの高僧[[アグワン・ドルジェフ]]から贈られた[[チベット]]野生種の[[バラ]]も含まれる。