「加賀国」の版間の差分

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近代以降の沿革
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<ref>国史大辞典、加賀国、吉川弘文館、ISBN 4-642-00502-X。</ref>。
 
加賀国は、[[令制国]]の中で最後に建てられた国である。その建国への提案は越前守の[[紀末成]]による。末成は、加賀郡が[[国府]]から遠く往還に不便で、[[郡司]]や[[郷長]]が不法を働いても民が訴えることができずに[[逃散]]し、[[国司]]の巡検も難しいといったことを理由にあげた。[[太政官]]はこれを受けて[[弘仁]]14年 ([[823年]]) 2月に、越前の二郡を割いて加賀国を建て、[[司# (令制等級区分)|中国]]にすることを奏した。3月1日に太政官は符を下して加賀国を作り、中国と定めた。同年6月4日に、江沼郡の北部を[[能美郡]]とし、加賀郡の南部を石川郡とすることを、加賀守を兼任した紀末成が言上し、これによって四郡になった。天長2年([[825年]])1月10日に、課丁と田の数が多いという理由で、加賀国は[[国司#国等級区分|上国]]に変更になった<ref>林陸朗「加賀立国の史的背景」、國學院大學文学部史学科編『坂本太郎博士頌寿記念日本史学論集』上巻、吉川弘文館、1983年、ISBN 4-642-01-019-X。</ref>。
 
中世には[[熊坂荘]]などの[[荘園 (日本)|荘園]]が置かれていたが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初頭に[[一向一揆]]が[[守護]][[富樫氏]]を滅ぼして以後100年近くにわたって一揆による支配が続く([[加賀一向一揆]])。