「トレチェント音楽」の版間の差分

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==概要==
北イタリアのロンバルディア地方はフランス圏との流通経路に当たるために、早くから南フランスの[[トルバドゥール]]文化の影響を受けて、13世紀にはトロヴァトーレ trovatore と呼ばれるイタリア独自の吟遊詩人達の活動が活発であった事が知られている。残念ながら彼らの曲は即興的であったためかほとんど残されていないが、その詩の形態は明らかにトルバドゥールの影響を受けていた。そしてその中でも特に、トレチェント音楽家達に並んで肖像画が描かれている同時期のボローニャの写本が示すように、俗語でありながら非常に巧妙な詩を書いた[[アルナウト・ダニエル]]の存在は大きかったらしい。それは[[ダンテ]]がその『[[神曲]]』の中でグイド・グィニッツェリ([[清新体派]]の祖とされる詩人、1230年頃 - 1276年頃)の言葉を借りて評している事でもわかる。
トレチェント音楽の詩の内容はこれらの伝統を受け継ぎ、狩り、田園、恋愛が多くを占め、またこの辺りを遍歴していた[[ペトラルカ]]の影響も大きかったようだ。
多声化への影響としては、確たる証拠は見つかっていないが、フランス王の使者として[[アヴィニョン]]の教皇庁に出入りしていたとされる[[アルス・ノーヴァ]]の創始者[[フィリップ・ド・ヴィトリ]]の音楽が、この教皇庁を支持していたミラノの宮廷に紹介されていた可能性は否定できない。(イソリズムこそ用いていないが、初期の作曲家の作品には既に幾つかの[[モテット]]が存在する。)
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トレチェント音楽は、[[ミラノ]]の[[ヴィスコンティ]]家などの特定の宮廷文化として花開いた初期、[[フィレンツェ]]を中心として裕福な市民階級に広がりを見せた盛期、[[ローマ]]とアヴィニョンの教皇庁同士の音楽趣味の競い合いから[[アルス・スブティリオル]]を採り込んで技巧に走り、特定のパトロン達に依存するようになって結局は15世紀の初頭に[[フランドル楽派]]に道を譲った末期に分ける事が出来る。その後16世紀半ばまでイタリア人音楽家は流行歌の[[フロットラ]]や[[ラウダ]]を作る事に埋没し、その間著名な作品も作曲家も現れる事はなかった。
 
*1320年に書かれた[[マルケット・ダ・パドヴァ]]の定量音楽論の理論書では、[[ナポリ]][[アンジュー家]]の宮廷でフランスの多声音楽が演奏されている事に言及して賞賛していることから、この時期はまだトレチェントの多声音楽は生まれていなかったと思われる。
 
*1332年の[[アントニオ・ダ・テンポ]]の音律法の理論書の中で、既に毎日のように多声マドリガーレが演奏されているとの記述があり、1320年代後半から作られるようになったと推測される。初期の作曲家としては、恐らく記録に残る中で一番初期の人物と思われる[[マギステル・ピエーロ]] Magister Piero(活動:1330年頃-1350年頃)、そして[[ヴェローナ]]の宮廷で互いに競い合ったと思われる[[ジョヴァンニ・ダ・カッシャ]] Giovanni da Cascia(活動:1340年頃-1350年頃)と[[ヤコポ・ダ・ボローニャ]] Jacopo da Bologna(活動:1340年頃-1360年頃)が知られており、いずれもミラノの宮廷と深い関わりがあったらしい。また音楽形式としてはトルバドゥールの形式を受け継ぐ[[マドリガーレ]](中世マドリガーレ)や[[カッチャ]]が主体であった。
 
*盛期の作曲家としてはフィレンツェの[[ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェ]] Gherardello da Firenze(1320/25年-1362/63年)、[[ロレンツィオ・ダ・フィレンツェ]] Lorenzo da Firenze(活動:1350年頃-1370年頃)、そして特に、ロレンツォに師事したと思われる[[フランチェスコ・ランディーニ]] Francesco Landini(1325年頃-1397年)が活躍した。後者は名オルガニストそしてペトラルカに賞賛された詩人としても知られ、またマドリガーレをやめ、より自由な形式である[[バッラータ]]を主体に曲を作った。
 
*末期の作曲者としては、ローマや[[ボローニャ]]の教皇領で活躍した[[アントニオ・ザッカーラ・ダ・テラーモ]](マギステル・ザカリアス)Antonius ZaccaraZachara da Teramo(Magister Zaccarias)(Zacharias)(活動:1380年頃-1415年頃)やバルトロメオ・ダ・ボローニャ Bartolomeo da Bologna(活動:1390年頃-1410年頃)、フランドル出身ではあるが、パドヴァの[[ヨハンネス・チコーニア]] Johannes Ciconia(1370年頃-1412年)が挙げられ、彼らはアルス・スブティリオルの作曲家とも良く交流していた事が知られている。一方、同時期のイタリア人作曲家であった[[マッテオ・ダ・ペルージャ]]や[[フィリップス・デ・カゼルタ]]、[[アントネッロ・デ・カゼルタ]]等は、フランス語の[[バラード]]や[[ヴィルレー]]、[[ロンドー]]などの作品が主体であり、アルス・スブティリオルの作曲家として捉えられよう