「東丹国」の版間の差分

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阿保機は渤海の領土をそのまま統治すべく、忽汗城を天福城と改め、長子[[耶律倍]](耶律突欲)を国王に任じて東丹を立てた。倍は人皇王と呼ばれ、契丹重臣の[[耶律羽之]]らが東丹次相として倍を補佐したが、扶余城で太祖・耶律阿保機が急死、東丹王耶律倍は太祖の遺骸とともに本国へ引き上げた。一方、契丹皇帝位は[[927年]]に、武勇に優れ人望のあった次男・[[耶律堯骨]](契丹太宗)が継承する。
 
長男で皇太子でありながら、契丹皇帝になれなかった倍はこれを恨み、耶律堯骨も兄が謀反を企てることを恐れ、兄弟の関係が緊張した。[[928年]]堯骨は[[遼東]]の東平郡(現・[[遼寧省]][[遼陽]])を契丹東京に昇格させ、東丹の都を天福城から遼陽城に移すよう倍に命じた。倍は臣従した[[渤海人]]らを連れて遼陽に移ったがこれは徙民政策によって渤海の中核を遼陽に移したことになった。[[渤海人]]はここを中心に独自の唐風文化を保つことになる。東丹国の手を放れた忽汗城(東は契の天福城、渤海の竜泉府)については、これまで叛乱勢力側の渤海人によって「[[後渤海]]」が建国され、旧渤海領の大半を再直接合したとみる一部の見解が優勢であったが、史料では裏付けがとれない。再統合したとみるよりは、諸勢力が分居し、その中の1つが『宋史』にみえる[[定安]]国となったとみたほうが、史料的には無理ない
 
弟・堯骨による暗殺を恐れる倍は、医巫閭山に隠棲するが、[[930年]]密かに[[後唐]]の都・[[開封]]に亡命する。これにより東丹は事実上滅亡したとみられていたが、1990年代に、各地で[[耶律羽之]]などの墓誌が発見され、東丹の官が継承されていることが明らかになったことにより、渤海人を統制する目的で東丹は存続していたとみられる。
 
[[936年]]、[[後晋]]に[[燕雲十六州]]を割譲させた契丹皇帝は引き続き存続していた東丹の官制を縮小し、[[947年]]には国号を[[遼]]と改称する。これ以後も、遼に服属した渤海人は、引き続いて主に遼の東京・遼陽に集住していたが、遷民の記録は史料次第に減少し10世紀末にはえなくなる。おそらく、遼が女真や高麗に攻め入ったころに、皇帝の権限強化をめざして東丹国の実権は皇帝などの中央権力に接収されたようである。
 
== 東丹国の日本遣使 ==
日本の史書は[[醍醐天皇]]の[[延長 (元号)|延長]]8年(929年)東丹の使節が[[丹後国]]竹野浜(現・[[京都府]][[京丹後市]])に来着したことを伝える。この派遣は、東丹が遼陽城に移った後の時期にたることから、遷都後船を出航させる日本海沿岸に東丹影響支配が及んでいたことがわかる。使者はこれまで二度も渤海国使として来日したことのある裴璆であった。何故国名が変わったのかを問われた裴璆は渤海が契丹に征服されたことを知らせ、新王の非道ぶりを訴えた。これを聞きとがめた[[京都]]の朝廷は主君を変えたばかりか、新主の悪口を言うとは不届きであるとして入京させず、追い返している。この史実によれば、東丹は渤海の後継者として日本との[[遣渤海使|通交]]を維持する意向であったことがわかる。
 
== 東丹国国王 ==