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[[ファイル:1 rentenmark 1.11.1923 xx.jpg|thumb|1923年発行の1レンテンマルク紙幣]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-00238, Vernichtung von Papiergeld.jpg|thumb|レンテンマルクとの交換に伴い処分されるパピエルマルク紙幣]]
'''レンテンマルク''' (Rentenmark) (Rentenmark)は、[[ドイツ]]における[[インフレーション|ハイパーインフレ]]からの経済立て直しのため、[[1923年]]から発行された臨時通貨。[[不換紙幣]]である。
 
==概要==
[[第一次世界大戦]]で敗戦国となったドイツは、[[ヴェルサイユ条約]]によって1,320億[[金マルク]]に上る莫大な賠償金を科せられた。[[1914年]]7月に1[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]=4=4.2金マルクだった[[為替レート]]は、[[ルール問題]]の影響も受けたインフレの進行で1923年1月に1ドル=7=7,525マルクとなり、[[ドイツ帝国銀行|ライヒスバンク]]は次々に[[パピエルマルク]]と呼ばれる超高額紙幣を増発、地方政府や企業も[[ノートゲルト]]といった臨時通貨を濫発した。その結果、対ドル為替レートは同年7月に1ドル=16=16万マルク、8月に462万455マルク、9月に9,886万マルク、10月に252億6,028万マルク、11月には4兆2,000億マルクにまで暴落してしまった。
 
当時の[[ルドルフ・ヒルファーディング|ヒルファーディング]]大蔵大臣はレンテンマルクの導入を決定したが更迭され<ref>Deutsches Historisches Museum, Biographie: Rudolf Hilferding. [http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/HilferdingRudolf/index.html Deutsches Historisches Museum, Biographie: Rudolf Hilferding.]</ref>、銀行家[[ヒャルマル・シャハト]]がライヒ通貨委員となり、ドイツ・レンテン銀行(Deutsche Rentenbank, Rentenは地代、利子、年金の意)を設立した。ドイツ・レンテン銀行は国内の土地を担保として[[11月15日]]にレンテンマルクを発行する。レンテンマルクとパピエルマルクの交換レートは1:1兆と決定された。ドイツ・レンテン銀行の通貨発行量は32億レンテンマルクに制限され、国債引受高も12億レンテンマルクに制限された。レンテンマルクは[[法定通貨]]ではなく不換紙幣であり、金との交換はできなかった。しかしながらレンテンマルクは広く国民に受け入れられ、ドイツのインフレは沈静化した。このインフレの収束は「レンテンマルクの奇跡」(Wunder der Rentenmark) と呼ばれた。
 
翌[[1924年]][[8月30日]]には、レンテンマルクに、新法定通貨である[[ライヒスマルク]]が追加された。レンテンマルクとライヒスマルクの交換比率は、1:1である。当初の予定では、レンテンマルクは[[1934年]]までに全てライヒスマルクに置き換えられることとなっていたが、実際にはその後もレンテンマルク紙幣が発行され、[[1948年]]まで通用している。[[1949年]]には、ドイツ・レンテン銀行の資産をもとに[[ドイツ農林金融公庫]]が設立された。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 関連項目 ==
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[[Category:ヴァイマル共和政]]
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[[Category:廃止された通貨]]
[[Category:20世紀の経済史]]
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