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== プロデビューまで ==
[[埼玉県]][[所沢市]]で生まれ、[[幼稚園]]に入る頃から[[東京都]][[八王子市]]に移り住んだ<ref name="zokan168">『[[将棋世界]][4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』 [[日本将棋連盟]]、1996年、168-175頁 「羽生善治、生い立ちの記」(記・炬口勝弘)</ref>。
 
[[小学校]]1年生のとき、近所に住む同級生から[[将棋]]の[[駒 (将棋)|駒]]の動かし方を教わった<ref name="zokan168"/><ref group="注">羽生に将棋を教えたこの同級生は小学校3年のときに[[山形県]]に引っ越し、以来、音信不通であったが、1995年にタイトル就位式で再会を果たす。(『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』 日本将棋連盟、1996年、171頁</ref>。2年生(1978年)の夏、将棋に熱中している我が子の姿を見ていた母が将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み、大会デビュー(1勝の後2連敗で失格)<ref name="zokan168"/>。それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになった<ref name="zokan168"/>。家が[[新興住宅地]]にあったため周囲にまだあまり店がなく、週末に両親が車で八王子市街に出かけて買いだめをするたび、道場の席主に母があいさつして羽生を預けた<ref name="zokan168"/>。
 
道場のいちばん下は7級であったが、昇級の楽しみを与えるため席主が与えた段級は14級であった<ref name="zokan168"/>。その後、[[棋力]]は急速に向上していき、翌年の小学3年生の時に初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段となり<ref name="zokan168"/>、いわゆるアマ強豪のレベルとなった。なお、家でも将棋を指し、それは両親と妹の計3名による「連合軍」と羽生1名が対戦して、連合軍が不利な展開になったときは[[将棋盤]]を180度回転して指し継ぐという家族内ルール<ref>NHK『[[クイズ日本人の質問]]』インタビュー</ref>であったが、羽生の上達が速かったため長続きしなかった<ref name="zokan168"/>。