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'''韓 遂'''(かん すい、? - [[215年]])は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。[[字]]は'''文約'''。'''韓約'''と呼ばれる事もある。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志「武帝紀」・[[蜀漢|蜀]]志「[[馬超]]伝」・『[[後漢書]]』「[[董卓]]伝」等に記がある。
 
後漢末期における[[涼州]]・[[関中]]軍閥の中核を担った人物で、その生涯に亘って涼州の覇権争いを続けつつ、中央への反乱を繰り返した。
 
==生涯==
[[霊帝 (漢)|霊帝]]の時代、[[辺章|辺允]]と共に西方で高く評価された(「武帝紀」が引く『[[典略]]』)。計吏として[[洛陽]]に赴いた時、[[何進]]に目をかけられた。何進に対し[[宦官]]を誅滅するように進言したが、何進従わなかったため、郷里に引きげたという(「武帝紀」が引く『典略』)。
 
[[184年]]、涼州で[[羌]]族や枹罕・河関の盗賊、涼州義従[[宋建]]・[[王国_(後漢の人名)|王国]]らが反乱を起こし、湟中義従胡[[北宮伯玉]][[李文侯]]を擁立して将軍とした。彼らは[[金城|金城郡]]まで来ると降参したりをし、韓・辺ら数十人を人質に取り、護羌校尉[[伶徴]]・金城太守[[太守陳懿]]の陳懿を殺害した。しかし遂と約・は釈放され、反乱軍によって擁立されて軍政を委ねられた<ref>「武帝紀」が引く『典略』では、[[宋揚]][[北宮]]らが反乱を起こし、韓遂・辺章を擁立したとある。</ref>。これにより、[[隴西郡]]では韓約・辺允の名を挙げて賊徒になったと言われてしま、また涼州の役所も彼らに懸賞をかけたので、この時に韓約は名を韓遂と、辺允辺章改めたという(後漢書「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」・後漢書「董卓伝」が引く『[[献帝春秋]]』)。
 
韓遂らは州郡を焼き払い、翌[[185]]3月には[[三輔]]地方に侵入した。後漢朝廷は討伐に[[皇甫嵩]]・[[董卓を派遣し]]が討伐にあたったが、皇甫嵩成果を挙げられなかったため罷免され、8月に朝廷は改めて[[張温 (後漢)|張温]]に諸郡の郡兵を率いさせ美陽に駐屯させた(「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」)。韓遂ら美陽に着陣し、張温・董卓らと戦って勝利を収めたが、11月董卓から攻撃を受け大破されたため、楡中に敗走した(後漢書「董卓伝」)。
 
しかし翌[[186]]、張温が朝廷に召し返されると、韓遂は辺章・北宮伯玉・李文侯を殺し<ref>「武帝紀」が引く『典略』では、辺章は病死したとある。</ref>、再び軍勢を擁して隴西を包囲した。[[187年]]、涼州刺史[[刺史耿鄙]]の耿鄙が韓遂らを討伐しようとし、[[天水|漢陽]]太守[[傅燮]]の諫めを聞き入れずに、[[狄道県|狄道]]まで赴い行ったところで部下の寝返りによって殺されると、韓遂らはそのまま進撃して漢陽郡を包囲し傅燮を殺害した(「霊帝紀」・後漢書「傅燮伝」)。このため、耿鄙の司馬であった[[馬騰]]も叛逆して韓遂らと合流し、王国を盟主に推戴して三輔地方に侵攻した(「霊帝紀」・後漢書「董卓伝」)。
 
[[188]]、韓遂らは陳倉を包囲したが、皇甫嵩・董卓に敗れたので、盟主の王国を追放した。その後、韓遂ら権力争いを始めて殺し合ったため彼らの軍勢は四散しばらばらになった(後漢書「董卓伝」)。
 
[[190年]]、朝廷の実権を握った董卓が[[長安]]に遷都し、[[192年]]夏4月にその董卓が[[呂布]]と[[王允]]らに殺されさらに[[李カク (後漢)|李{{Lang|zh|&#20629;}}]]・[[郭シ|郭汜]]がその王允を殺し、呂布を追い出して自分たちの政権の座につくを成立させると、韓遂・馬騰は李{{Lang|zh|&#20629;}}らに恭順の意を見せ、[[長安]]に赴いた(魏志「董卓伝」)。韓遂は鎮西将軍に任命され涼州に帰還し、馬騰は征西将軍に任命され&#37119;に駐屯した(魏志「董卓伝」・蜀志「馬超伝」)。
 
[[194年]]、馬騰は朝廷の反李{{Lang|zh|&#20629;}}勢力や[[益州]]の[[劉焉]]と共同で長安を攻めた。韓遂はそれを聞いた韓遂は馬騰と李{{Lang|zh|&#20629;}}らを和解させようとしたが、結果的にけっきょく馬騰に合流することになってしまい韓遂・馬騰は[[樊稠]]・郭汜に大敗した。この時、韓遂は陳倉まで逃走したところを樊稠に追い付かれたが、旧知であったため見逃してもらったという(後漢書「董卓伝」・魏志「董卓伝」が引く『[[九州春秋]]』)。
 
韓遂は、当初は馬騰と義兄弟の契りを結ぶなど、極めて親しくしていたという(「馬超伝」が引く『典略』)。しかしその後、涼州を巡って馬騰とも対立し、一転して互いに一族を殺し合う有様となった(魏志「[[鍾ヨウ|鍾&#32327;]]伝」・「馬超伝」が引く『典略』)。
 
[[197年]]、[[曹操]]は[[袁紹]]との衝突に備[[官渡の戦い]]を控るため、関中の混乱を収めようとるため、鍾&#32327;を派遣し関中の総指揮を委ねた(「鍾&#32327;伝」)。鍾&#32327;は長安に拠って[[張既]]を使者として派遣、張既や涼州牧の[[韋端]]の仲介をもってにより韓遂馬騰ら講和させた。韓遂、その後は子を人質に送り、曹操の傘下となった(「鍾&#32327;伝」・魏志「張既伝」・「馬超伝」が引く『典略』)。
 
[[202年]]、[[袁尚]]の派遣した河東太守の[[郭援]]が関中方面に侵攻すると、鍾&#32327;から関中の将軍らに援軍要請が来たため、韓遂らは馬騰の子[[馬超]]に精鋭を与えて、曹操への援軍に赴かを率いさた。このため鍾繇は郭援を大破することができた(「鍾&#32327;伝」)。韓遂は征西将軍、馬騰征南将軍に任じられ、将軍府を開くことを許された(後漢書「董卓伝」)。
 
馬騰が曹操の強い要請で[[朝廷]]に出仕し、[[衛尉]]となり一族を引き連れて[[ギョウ|&#37172;]]に移住すると、馬騰の軍勢を引きいだ馬超をに立てた(「張既伝」・「馬超伝」)。
 
[[209年]]、[[張猛 (武威太守)|張猛]]が[[雍州]]刺史の[[邯鄲商]]を殺害し反乱を起こした。このため翌[[210]]、韓遂は上書して張猛を討伐し自害に追い込んだ(魏志「[[ホウイク|&#40848;&#28143;]]伝」が引く『典略』)。
 
その翌年の[[211年]]3月(「武帝紀」)、曹操が鍾&#32327;の計画で[[漢中]]の[[張魯]]征討に出兵する動きを見せ、[[夏侯淵]]らの軍を動かすと、韓遂らは曹操が張魯攻撃に託け、通り道に当たる自分たちを攻撃するのではないかと危惧し、馬超・[[楊秋]]・[[成宜]]・[[李堪]]ら関中の有力者らとこれに呼応して曹操に対して反逆した(「武帝紀」)。[[弘農]][[馮翊]]の者達はこれに呼応する者が多かったが、[[杜畿]]が太守を務める河東郡だけ動揺しなかったという(魏志「杜畿伝」・魏志「[[裴潜]]伝」が引く『[[魏略]]』「[[厳幹]]伝」)。曹操は河東に同郡出身の[[徐晃]]を派遣した(魏志「徐晃伝」)。
 
同年秋7月には、韓遂らは[[潼関]]に拠り曹操軍の[[曹仁]]らと対峙し、渭水の畔で9月まで曹操軍と死闘を展開したが、決着つかなかった(「武帝紀」)。
 
しかし曹操が配下の[[賈ク|賈&#35425;]]による離間策を採用し、韓遂・馬超会談を持ちかけてくると、韓遂と曹操、韓遂の父と曹操が同年の孝廉であったり、同時期に挙兵した間柄であった事から、昔話に興じるなど親しく談笑したため、馬超らに疑われた。また曹操韓遂にわざと馬超らから疑惑を懐かれる招くような手紙を送ったため、益々韓遂は疑われた。曹操この足並みの乱れに乗じて馬超らを攻撃すると、韓遂・馬超は涼州に逃亡した(「武帝紀」)。人質に送られていた韓遂の子と孫は、曹操にしにされた。
 
[[214年]]馬超が[[テイ (民族)|&#27664;]]族と手を組み反乱を起こし涼州の動静すとれたため曹操が長安に置いていた夏侯淵は涼州平定のために攻めて来た(「武帝紀」・魏志「夏侯淵伝」)。夏侯淵は馬超を討つついでに、涼州の抵抗勢力を一掃する事を企図し、韓遂にも攻撃を加えてきた。韓遂は異民族と手を組みこれと懸命に戦ったが、夏侯淵の軍略の前に敗れ金城(あるいは[[西寧市|西平]])に逃走した(「夏侯淵伝」)。
 
韓遂は、[[閻行]]に叛かれるなどその勢力を弱めたため、益州の[[劉備]]の下に逃げようかと配下の[[成公英]]に漏らした。しかしが、成公英抗戦を主張したため、韓遂もこれに従った(「張既伝」が引く『典略』・及び『魏略』)。
 
[[215年]]、曹操は漢中の張魯を討つために親征してきた。西平・金城に割拠する[[麹演]][[蒋石]]は協力して韓遂を殺害し、首を曹操に送ったという。70余歳だった(「武帝紀」が引く『典略』)。
 
晩年の韓遂については異説があり、夏侯淵に敗れた後に西平の[[郭憲]]に庇護されていたが、病死した後にその首を斬り落として曹操への手土産にした者達がいたという(魏志「[[王修]]伝」が引く『魏略』「[[純固]]伝」)。
 
==三国志演義における韓遂==
小説『[[三国志演義]]』では、董卓残党との抗争の時に馬騰の同盟者として登場し、史実と同様に昔馴染みの樊稠に見逃されている。その後、[[赤壁の戦い]]の時に群雄として健在である事が語られる。馬騰が謀殺された後、馬超の忠実な同盟者として「[[旗本八旗|手下八部]]」(楊秋・[[侯選]]・[[張横 (後漢)|張横]]・[[程銀]]・成宜・李堪・[[馬玩]]・[[梁興]])を率いて曹操と戦う。しかし、手下八部の内の3名を失うなど苦戦し、最後は賈&#35425;の離間の計に嵌まり、怒った馬超によって左腕を落とされてしまう。その後は曹操に降伏して[[関内侯]]に封じられ、夏侯淵と共に涼州に留まる事になっている。
 
また、年齢は史書と異なり40歳([[172年]]生まれに相当)という設定である。