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昭和8年([[1933年]])、京都に舞い戻り、かつて大活同期の内田吐夢が発掘した[[俳優|女優]][[入江たか子]]の「[[入江ぷろだくしょん]]」、かつて不二映画社の作品を配給した[[新興キネマ|新興キネマ京都太秦撮影所]]([[帝国キネマ|帝国キネマ太秦撮影所]]の後身)に入社し、溝口健二監督の『[[瀧の白糸]]』、『祇園祭』に出演した。
 
同年、長女鞠子(岡田茉莉子)が出生。[[村田実]]監督の『青春街』に出演したが、この頃から持病だった結核が悪化、同年12月に[[大阪]]の[[大阪赤十字病院]]に入院した。年末にいったん小康を得たものの、昭和9年([[1934年]])[[1月16日]]、[[兵庫県]][[西宮市]]の寓居で息を引き取った。満30歳没の早世だった。葬儀では谷崎潤一郎が弔辞を読んだ。
 
『青春街』のあとに『神風連』(1934年公開)で入江たか子の相手役として主演することが決まっていた。監督の溝口健二は当時病臥に伏していた岡田の回復を二か月の間待っていたが、ついにあきらめて主演を[[月形龍之介]]に迎えて撮影を開始したという。
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* 新しき天(入江ぷろだくしょん、1933年)
* [[金色夜叉#映画版|間貫一]](新興キネマ、1933年)
* 青春街(新興キネマ、1933年)  ※遺作
 
== 関連項目 ==