削除された内容 追加された内容
→‎人物: フィンタ・デ・レギレテ
25行目:
[[ジョー樋口]]や[[マシオ駒]]に師事し、元々持っていた軽快なフットワークを武器にレフェリングを学ぶ。レフェリングデビューは[[1974年]]の全日本プロレスの「[[NWA_(プロレス)|NWA]]チャンピオン・シリーズ」。樋口、[[ミスター林]]に次ぐ3番手のレフェリーだったが、[[1990年]]の[[ジャンボ鶴田]]対[[三沢光晴]]戦以降、師匠の樋口が高齢になったことや、林が[[ジャパン女子プロレス]]に移籍したことなどから、メイン級の試合を本格的に担当するようになる。
 
「グラウンド状態の選手の上を飛び越える」「選手に飛ばされリングから落ちそうになっても、トップロープとセカンドロープをつかんでくるっと一回転して戻ってくる」([[佐山聡|初代タイガーマスク]]が披露していたフィンタ・デ・レギレテ。[[レイ・ミステリオ・ジュニア|レイ・ミステリオ]]の「619」によく似た形)など様々な形で表現される、軽快なフットワークと大きなアクション、正確かつ迅速な判断のレフェリングが評価され、[[プロレス大賞]]でも表彰を受けている。特に、[[1990年代]]中盤以降、和田がレフェリーを務める試合において、リングアナの「レフェリー、和田京平」のコールのあとに客が発する「'''キョーヘー!!'''」の大コールが起きるのがお決まりとなっており、全日本プロレス名物と言える<ref>これは樋口が担当した場合の「ジョー!!」の時代からの流れとも言え、のちにプロレスリングノアのレフリーを務めた[[マイティー井上]](元選手)の「マーイティー!!」にも受け継がれていった。</ref>。さらに、一時期は樋口や[[プロレスラー|レスラー]]から後に転向した林とともにNWAの公認レフェリーだった時期もある。
 
また、[[2000年]]まで全日本の社員だった[[仲田龍]](後の[[プロレスリング・ノア]]取締役)と共に[[ジャイアント馬場]]の付き人を10年あまり務め、馬場が亡くなる際には身内以外としては、仲田とともに最期を看取った。リングアナウンサー・仲田龍とレフェリー・和田京平は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。