「ネルソン・ピケ」の版間の差分

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また第14戦カナダGPのフリー走行後に、チームのエースドライバーだった[[ニキ・ラウダ]]が突如引退を表明。ピケはNo.1ドライバーに昇格することとなった。最終戦アメリカ東GPでは、予選2位と[[フロントロー]]を獲得している(決勝は8位)。
 
[[ファイル:Brabham bt49.jpg|thumb|220px|right|[[ブラバムBT49(1980・BT49|ブラバムBT49]]をドライブするピケ(1980年)]]
[[ファイル:Piquet at 1980 Dutch Grand Prix.jpg|thumb|220px|right|1980年フランスGP]]
; '''1980年'''
この年マシンの戦闘力は大幅に向上し、開幕戦[[アルゼンチングランプリ|アルゼンチンGP]] では、2位初表彰台を獲得。第4戦[[アメリカ西グランプリ|アメリカ西GP]]では、予選で初[[ポール・ポジション]](以下:PP)を獲得し、決勝でも終始トップを走行し初優勝、[[ファステストラップ]](以下:FL)もマークした。
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BMW開発のターボエンジンの完成度が低く苦戦。前年のフォードNAエンジン搭載車で走った第2戦ブラジルGPでは、トップでゴールしたものの、最低重量違反で失格。第7戦[[アメリカ東グランプリ|デトロイトGP]]では、予選落ちまでも喫した。第8戦カナダGPでは優勝したものの、その後もシーズンを通しては苦戦を強いられることとなる。第12戦ドイツGPでは、シーズン2勝目のチャンスが巡ってきたが、[[エリセオ・サラザール]]を周回遅れにする際、サラザールに接触されリタイヤとなった。結局、ランキングで僚友[[リカルド・パトレーゼ]]より下の11位に終わった。
 
[[ファイル:Nelson Piquet drivinga BrabhamMonza BT52 2013 Goodwood Festival of Speed1983.jpgJPG|thumb|right220px|220pxleft|ブラバム・BT521983年イタリアGP]]
[[ファイル:Nelson Piquet driving Brabham BT52 2013 Goodwood Festival of Speed.jpg|thumb|right|220px|[[ブラバム・BT52|ブラバムBT52]]をドライブするピケ(1983年)]]
[[ファイル:Piquet and Prost at 1983 Dutch Grand Prix.jpg|thumb|right|220px|1983年オランダGPにて、ルノーのプロストと先頭を争うピケ]]
; '''1983年'''
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[[1984年]]は[[マクラーレン]]・[[ポルシェ]]がラウダとプロストのコンビでシーズンを席巻。ピケは予選でこそ、当時のシーズン最多記録となる9度のPPを獲得、決勝でも3度のFLなど速さを見せたが、優勝は2度。全16戦中リタイヤが9回にのぼるなど、マシントラブルが多発したこともあり結果がついてこず、ランキング5位に留まった(入賞6回・うち表彰台5回)。
 
[[ファイル:Piquet - Brabham-BMW BT 54 1985-08-02.jpg|thumb|220px|right|[[ブラバムBT54(1985・BT54|ブラバムBT54]]をドライブするピケ(1985年)]]
; '''1985年'''
ブラバムの戦闘力はさらに下降気味であり、前年以上の苦戦を強いられた。 [[ピレリ]]タイヤのタイヤ選択がはまった第7戦フランスGPでは勝利を挙げるが、これを含め表彰台は2度、入賞自体も5度に留まり、ランキングは8位と更に下がってしまった。
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; '''1987年'''
[[ファイル:Williams FW11B Honda.jpg|thumb|220px|right|[[ウィリアムズ・FW11|ウィリアムズF11]](1987年)]]
第2戦[[1987年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]予選中、高速コーナー・タンブレロにて激しいクラッシュに見舞われ、レースを欠場。その後も十分な睡眠を取れないなど、クラッシュの後遺症にシーズンを通して悩まされ続けることとなる。
 
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; '''1989年'''
翌[[1989年]]にはホンダエンジンを失い、非力な[[ジャッド]]V8エンジンを搭載した[[ロータス 101|101]]をドライブすることになる。戦闘力が前年以上に落ちたこともあり、成績は入賞4回で表彰台なし、ランキング8位と更に下降。第11戦[[ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]では、6年ぶりの予選落ちを喫している。結局、ロータスでは1勝も挙げることは出来なかった。
 
==== ベネトン時代 ====
; '''1990年'''
[[ファイル:Benetton B190B.jpg|thumb|220px|right|[[ベネトン・B190|ベネトンB190B]](1990年)]]
[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]に移籍し、[[アレッサンドロ・ナニーニ]]とコンビを組んだ。ギャラを完全出来高制(1ポイント獲得につき10万ドル)にするという異例の契約の中、開幕から堅実に入賞を重ね存在をアピール。そして第15戦[[日本グランプリ (4輪)|日本GP]]では、ナニー二の代役・[[ロベルト・モレノ]]を従え、3年ぶりの優勝をチーム初の1-2フィニッシュで遂げる。続く最終戦[[オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]でも優勝し、2連勝でシーズンをしめくくり評価を取り戻した(このGPは、F1創設から通産500戦目のメモリアルレースでもあった)。最終的に16戦中12度の入賞(うち表彰台4回)を記録し、ランキング3位に食い込んだ。
 
; '''1991年'''
[[ファイル:2006FOSPiquet 1991BenettonB1911991.jpg|thumb|thumb|220px|rightleft|[[ベネトン・B191]](19911991アメリカGP]]
[[ファイル:Piquet2006FOS 19911991BenettonB191.jpg|thumb|220px|right|1991[[ベネトン・B191|ベネトンB191]](1991アメリカGP]]
前年の日本GPでの2位を評価されての加入となった同胞モレノをチームメイトに迎え、可愛がっていた後輩とのタッグとなった。第5戦[[カナダグランプリ|カナダGP]]では、スタートから終始トップを走っていたマンセルが最終ラップにストップし、土壇場で逆転勝利を収めた。これは[[ピレリ|ピレリタイヤ]]にとって5年ぶりの勝利で、ピケのF1での最後の優勝となった。