「日本の首都」の版間の差分

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古代の頻繁な遷都や宮殿の移転・新築は、政治的な思惑の他にも建築物の耐用年数の影響が考えられる。中国風の都市計画を持ち込んだ[[藤原京]]・[[平城京]]・[[難波京]]・[[平安京]]などでは、計画的な庶民の居住を促しても、家が掘立柱建築だったために、地下水位の高い低湿地や河川の氾濫原は居住に適さないとして放棄され、いずれも当初の計画とは異なる都市へと変化した。
 
[[飛鳥京跡|飛鳥宮]]([[飛鳥時代]])以前に都城は存在しない。[[奈良時代]]の初めに編まれた『[[日本書]]』および『[[古事記]]』によれば、歴代[[大王 (ヤマト王権)|大王]]の宮室が[[磯城]] ・[[磐余]]([[奈良県]][[桜井市]])のほか、[[難波]] ・[[河内国|河内]]地方([[大阪府]])などに複数営まれたため、各々の宮室を中心に萌芽的な都邑が形成されていたことも考えられる。しかし、その具体的な遺構は未発見である。記紀に見える宮室については、「[[皇居#歴代の皇居|歴代の皇居]]」を参照。
 
なお、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき[[複都制|副都]](陪都)が設けられることもある([[首都#世界の首都|複都制]])。例としては、[[天武天皇]]の[[難波京]]を始め、[[淳仁天皇]]の「北京」[[保良宮]](滋賀県大津市、[[761年]]([[天平宝字]]5年) - [[764年]](天平宝字8年))、[[孝謙天皇|称徳天皇]]の「西京」[[由義宮]](大阪府[[八尾市]]、[[769年]]([[神護景雲]]3年) - [[770年]]([[宝亀]]元年))が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波京は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた。