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[[file:División administrativa del Reino de Valencia durante los siglos XIV a XVII.png|right|thumb|250px|バレンシア王国の位置]]
'''バレンシア王国'''(バレンシアおうこく、[[バレンシア語]]: {{lang|ca|''Regne de Valencia''}})は、[[イベリア半島]]東海岸にかつてあった王国で、[[アラゴン連合王国]]を構成する国の一つ。
 
バレンシア王国は、1237年に[[イスラム教]]徒の[[タイファ]]として成立したが、[[レコンキスタ]]でキリスト教のアラゴン連合王国に占領された。[[カトリック両王]]の結婚によりアラゴンと[[カスティーリャ王国]]が同君連合となり、その後[[スペイン王国]]が成立すると、バレンシア王国はスペインの構成国家となった。
 
存在している間バレンシア王国は、アラゴン、そしてスペインから与えられた広い自治権を有する憲章の上で、独自法と自治機関を持ち、統治されていた。[[スペイン継承戦争]]でバレンシアが敗北したために、[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]は[[新国家基本法]] ([[:en:Nueva Planta decrees|en]]) を1707年に布告し、バレンシアから全ての自治と特権を奪った。
 
境界線、そして現在のスペインの[[自治州]]である[[バレンシア州]]の同一性は、基本的にかつてのバレンシア王国に基づいている。
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第3段階は1243年に始まり1245年に終わり、ジャウマ1世と、カスティーリャ王位継承予定者である王子アルフォンソ(1252年に[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]として即位)との間で国境が確定された。これらの国境は、カスティーリャ=アラゴン間のアルミスラ条約によって引かれた。この条約は、彼らの影響が与えられる望ましい地域を確立することで、南方へムーア人勢力を押しだすレコンキスタの尽力を調整することになった。アルミスラ条約は、現在の[[アリカンテ県]]北部にビアル=ブソト線をつくり、アラゴン王国拡大の南方国境として確立させた。
 
大多数を占める[[ムデハル]]住民問題が、より南の戦線から次第に残っていった。彼らはやがて[[カトリック教会|カトリック]]に改宗させられ[[モリスコ]]と呼ばれるが、最終的に1609年に一団となって追放されるまで([[モリスコ追放]])、征服過程の非常に初期からとどまっていた。追放されるまで、彼らは新設された王国の複雑な問題を表していた。モリスコはその人数の多さから経済活動に本質的に欠かせない存在であり、しばしばムハンマド・アブー・アブダラ・ベン・フザイル・アル・サフイール ([[:en:Mohammad Abu Abdallah Ben Hudzail al Sahuir|en]]) のような地元イスラム教徒との協定を励起した。彼はキリスト教君主から、モリスコ文化に様々な寛容の程度を与えることを許されていた。しかし一方で、彼らはキリスト教君主に対する忠誠に欠け、モリスコ救援のために[[オスマン帝国]]を連れてくるという実際または想像上の共謀をしているとみなされていた。
 
キリスト教徒支配に対しイスラム教徒側からの反抗がしばしば起きた。最も恐れられたのはムーア人首領ムハンマド・アブー・アブダラ・ベン・フザイル・アル・サフイール(アル=アスラクとも)による反乱だった。1244年、1248年、1276年に彼は重要な反乱を率いた。これらの反乱初期には、彼は事実上[[フカル川]]南部の土地をイスラムの独立国家として獲得した。しかし、彼はすぐに降伏させられた。二度目の反乱では、ハイメ1世はもう少しで戦闘で死ぬところであった。しかしアル=アスラクも最終的には捕らわれ、彼の生命はこれまでのキリスト教君主との長期関係を理由に助命された。三度目の反乱では、アル=アスラク自身が殺害されたが彼の息子がイスラム教徒の社会的不安を助長し続け、地元イスラム反乱は常に視界の中に残り続けた。
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ジャウマ1世の孫である[[ジャウマ2世]]は、ビアル=ブソト協定よりさらに自軍を南進させる最終攻撃を、1296年に始めた。彼の遠征は[[ムルシア]]とベガ・バハ・デル・セグラ周辺の肥沃な田園地帯に向けられた。その地域は、地元のイスラム教徒支配者がカスティーリャとの協定によって縛られ、王国の代理人として治めていた。カスティーリャ軍は、どんな場合も定まっていなかった王権を主張するためにしばしば一帯を略奪した。カスティーリャ軍の略奪は、軍事境界線上の小競り合いそして常に変化する同盟関係で特徴づけられていた。
 
ジャウマ2世指揮下の遠征は、以前カスティーリャと合意した境界の南部となる、バレンシア王国の範囲を拡張するという点で成功した。ジャウマ2世軍は[[オリウエラ]]とムルシアを獲得した。カスティーリャ=アラゴン間の有限の国境となるはずだったものは、最終的に1304年のトーレリャス条約 (''Sentencia Arbitral de Torrellas'') で合意され、1305年のエルチェ条約によって修正された。エルチェ条約ではムルシアがカスティーリャへ渡され、オリウエラ、アリカンテ、[[エルチェ]]がバレンシア王国へ渡った。これでバレンシア王国南部の国境線が確定した。
[[Image:Mapa de conquesta del Regne de valencia.png|thumb|250px|キリスト教国のバレンシア王国征服:緑色部分は19世紀になってバレンシア自治州へ併合された部分。最南部ビアル=ブソト線は1296年まで南部の国境線であった]] 
 
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[[File:Coat of Arms of Valencia (Spain).svg|left|thumb|200px|バレンシア市の紋章。2つのLと王冠がある]]
[[Image:VALENCIA ES Lonja inside.jpg|thumb|250px|ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ]]
1261年4月7日、ジャウマ1世はコルツ・バレンシアネス([[:ca:Corts Valencianes|en]]、[[コルテス (身分制議会)|コルテス]]と同義)を前に、バレンシア特別法 ([[:es:Fueros de Valencia|es]]) を布告した。これはバルセロナの[[ウザッジャ]]([[:en:Usages of Barcelona|en]]、バルセロナ慣習法とも)を基本としたもので、今日の自治憲法に等しいものだった。
 
1356年から1365年の間、カスティーリャ王[[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]]とアラゴン王[[ペドロ4世 (アラゴン王)|ペドロ4世]]との間で血塗られた戦争が起こった。ペドロ4世が、カスティーリャが支配するムルシア王国支配に関心を持っていたためである。アリカンテといった都市は数年間カスティーリャ軍に包囲され、2度のカスティーリャによる猛攻に耐え、彼らの勇気は賞賛された。[[バレンシア (スペイン)|バレンシア市]]は、『2倍忠実である』(doblemente leal)(doblemente leal) という意味の2つのLを市の[[エスカッシャン (紋章学)|盾形紋地]]に授けられ、市旗には本物の王冠を授けられた。現在のバレンシアの旗はこうして生まれた。
 
バレンシア王国は、15世紀初頭に最盛期に達した。経済は繁栄し、バレンシアやバルセロナの港に地中海貿易が集中し、アラゴン王国の支配がますます強まった。
バレンシア市にはタウラ・デ・カンビス (''Taula de canvis'') が創設された。これは部分的に銀行、株式市場として機能していた。このどちらもが貿易を押し上げていた。特に織物製品に代表される地場産業は大いに発展を成し遂げ、バレンシア市はヨーロッパ中の商人が働く地中海貿易の商業中心地と化した。おそらく、この華やかな時代を象徴する最高のシンボルは、絹取引所[[ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ]]である。これは公の[[ゴシック様式]]、そして15世紀終わりから16世紀中を通じての地中海における主要商業市場のヨーロッパでの優れた一例である。
 
バレンシアは、[[ヨハネス・グーテンベルク]]設計の[[活字]][[印刷機]]を設置した、ヨーロッパ初の都市の1つであった。『ティラン・ロ・ブラン』 ([[:en:Tirant lo Blanch|en]]) の作者[[ジュアノット・マルトレイ]] ([[:en:Joanot Martorell|en]])、詩人[[アウジアス・マルク]] ([[:en:Ausiàs March|en]]) といったバレンシア人作家は、カタルーニャ語古典文学の規範を整えた。
 
=== 近代 ===