「武田義信」の版間の差分

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事件後の永禄10年(1567年)8月7日には[[小県郡]]の[[生島足島神社]]において、領国内の家臣団に信玄への忠誠を誓わせた[[起請文]]が奉納されているが(『戦武』1099ー1186号)、これは事件後に生じた家臣団の動揺を鎮める意図であったとする見解がある<ref>一方、西川広平は長尾輝虎との対陣に際して起請文が奉納されてきた生島足島神社の性格から、永禄10年の起請文奉納も輝虎方への同調を抑止する意図であったとしている((西川「武田信玄の願文奉納をめぐって-宗教政策の一側面-」『新編武田信玄のすべて』)。</ref>
 
甲斐国[[美和神社 (笛吹市)|二宮美和神社]]の奉加帳(『美和神社文書』)に拠れば、永禄8年(1565年)6月に長坂、曽根らによる太刀奉納が行われており、『軍鑑』の誤筆で事件発覚は永禄8年(1565年)7月のことであるとも考えられている<ref>平山優「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』(山梨県韮崎市教育委員会、2001年)</ref>。また、永禄8年(1565年)10月23日に武田信玄が西上野の玄五郎に宛てた返書(『[[戦国遺文]]959号』によれば、信玄は飯富らによる密謀が発覚したので即刻成敗したと記していることからも、虎昌らの成敗は永禄8年(1565年)9月~10月のことであるとも指摘され(平山(2001))、近年発見された高野山成慶院「[[甲斐国供養帳]]」により、飯富の死去は同年810月15日であることが確認されている<ref>丸島和洋「高野山成慶院『甲斐国供養帳』-『過去帳(甲州月牌帳)』」『武田氏研究』(34号、2006年)</ref>。
 
また、甲斐南部には駿河と接した河内領があり、河内領主で武田御一門衆の穴山氏は[[穴山信友|信友]]・[[穴山信君|信君]]期に武田宗家と姻戚関係をもち、武田・今川間の甲駿同盟を取次し天文21年の義信と今川義元娘の婚姻も仲介している。穴山氏は武田宗家に従属しつつも今川氏と深い関係にあったが、義信以降の永禄11年末に武田氏は今川領国への侵攻を開始し([[駿河侵攻]])、穴山氏は軍事行動を主導している。