「長野憲業」の版間の差分

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系譜関係は判然としないが、一説には[[長野尚業]](業尚)の子で、[[長野方業]](長野賢忠、厩橋長野氏)の兄。[[長野業氏]]、女子([[長尾景英]][[正室]])、[[長野業正]]、女子([[里見義堯]]正室)の父。初名は'''信業'''で、のちに[[上杉憲房 (戦国時代)|上杉憲房]]の一字を貰い受け憲業と名乗った。ただし、信業は憲業とは別人(兄弟)であるとしたり、業正は信業の子で憲業にとっては養子であるとされる場合、方業を賢忠の弟で憲業没後に箕輪長野氏に入嗣して業正はその息子とする説もある。
 
[[文亀]]3年([[1503年]])、先代の尚業(業尚)が没し家督を継承する。[[関東管領]]である[[山内上杉家]]に仕え、[[長享の乱]]では[[上杉顕定]]に合力して[[扇谷上杉家]]の[[上杉朝良]]を屈服させることに貢献した。[[室町時代]]に上野に勢力を持っていた惣社長尾氏、白井長尾氏との抗争をくりひろげ、[[上州一揆]]の中心として[[上野長野氏|長野氏]]の戦国大名化にいそしみ、[[大永]]年間の後半においては両長尾氏をしのぐ勢力を築いた。享禄3年(1530年)、吾妻において戦死(『長年寺本長野系図』による。ただし、別の系図(『長野稔氏本長野系図』)では[[永正]]11([[1514年]])の事とする。その後大永4年(1524年)ついても異説は[[長野方業]](左衛門大夫)箕輪城主として文書を発給していことから、後者を正しい没年し、憲業の戦死を永正11年当時の山内上杉家の内紛([[永正の乱]]に関連した戦いとする<ref>黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」『日本史攷究』35号、2011年/『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年</ref>
 
墓所は長年寺([[群馬県]][[高崎市]])。
 
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[上杉氏]]