「フリードリヒ・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム」の版間の差分

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[[ファイル:Friedrich HeKaRump.jpg|thumb|ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯フリードリヒ3世]]
'''フリードリヒ・フォン・ヘッセン=カッセル'''('''Friedrich von Hessen-Kassel''', 1747年9月11日 [[カッセル]] - 1837年5月20日 [[フランクフルト・アム・マイン]])は、[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル方伯]][[ヘッセン家|家]]の公子。ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯の称号を有し、'''フリードリヒ3世''' ('''Friedrich III. von Hessen-Kassel-Rumpenheim''') とも呼ばれる。[[ヘッセン家]] ([[:de:Haus Hessen|de]]) 諸家の中で現在も続く分家、[[ヘッセン=ルンペンハイム家]]の始祖である。
 
フリードリヒはヘッセン=カッセル方伯[[フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)|フリードリヒ2世]]とその最初の妃でイギリス王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の娘である[[メアリー・オブ・グレート・ブリテン|メアリー]]との間に末息子として生まれた。1749年に父が[[カトリック教会|カトリック]]に改宗すると、母メアリーは夫と絶縁し、3人の息子たちを連れてヘッセン=カッセル家の領地[[ハーナウ]]伯領に移った。その後、メアリーは妹の[[デンマーク]]王妃[[ルイーズ・オブ・グレート・ブリテン|ルイーズ]]の遺児たちを世話するため、息子たちと一緒に[[コペンハーゲン]]宮廷で暮らすようになった。フリードリヒはコペンハーゲンと[[オーフス]]の王立陸軍士官学校で学び、1769年にデンマーク軍の歩兵隊司令官に任官した。
 
1781年、フリードリヒは次兄の[[カール・フォン・ヘッセン=カッセル|カール]]からルンペンハイムの城館と所領を買い取ってここを居所とし、1788年にはルンペンハイム宮殿 ([[:de:Rumpenheimer Schloss|de]]) を建設し、さらに同宮殿にイギリス式庭園を敷設した。[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]政府に出仕したフリードリヒは1793年に騎兵隊将軍および[[マーストリヒト]]の知事に就任している。フランス軍が1793年にオランダを侵略してきたとき、フリードリヒはマーストリヒトを3ヵ月のあいだ敵軍に包囲され、結局は1794年に降伏した。フリードリヒはそのまま隠居し、ルンペンハイム宮殿とカッセルで暮らした。
 
1803年に長兄のヘッセン=カッセル方伯[[ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム]]はヘッセン選帝侯に昇格すると、二人の弟たちにヘッセン=カッセル方伯の称号を与えた。1821年に甥の選帝侯[[ヴィルヘルム2世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム2世]]が即位すると、甥と不仲であったフリードリヒはカッセルを去って[[ゴータ]]や[[ハノーファー]]で余生を送った。