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== 生涯 ==
=== 早稲田のエース ===
[[1897年]](明治30年)一家は横浜に転居し、野球に親しむようになる。旧制[[横浜市立横浜商業高等学校|横浜商業学校]]、[[学校法人明治学院|明治学院]]を経て[[1903年]](明治36年)[[早稲田大学]]入学後、創設して三年目の野球部に入部、第1回[[早慶戦]]の先発に抜擢された。この試合は9-11で敗れるが、その後[[エース (野球)|エース]]として活躍、「日本一」に貢献。
 
[[1905年]](明治38年)、野球部長の[[安部磯雄]]は日本一の褒美として、[[大隈重信]]学長に'''史上初のアメリカ遠征'''を願い出た。片道の渡航費5500円を借り受け、米国西海岸を転戦。各地の大学や軍隊のチームと26試合を行い、7勝19敗だったが、河野は24試合に登板、現地で「Iron Kouno(鉄人河野)」と呼ばれた。この時、河野の人気に目をつけたタコマというプロチームから、臨時に試合出場しないかと打診されているが、これは安部が断っている。また、この遠征で、日本で初めて[[ワインドアップ]]投法や緩急をつけた投球を習得したといわれる。ちなみに、[[竹久夢二]]はこの河野のワインドアップ投法に強く魅せられ、絵はがきや挿絵に何枚も河野の姿を描いているほか、処女画集である『夢二画集 春の巻』の前書きにも河野のことを記している。