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{{出典の明記|date=2013年4月|ソートキー=人1564年没}}
[[画像:Grave of Kuroda Shigetaka.jpg|thumb|200px|[[御着城]]跡地にある黒田重隆(左側)と如水の母明石氏の墓]]
'''黒田重隆'''(くろだ しげたか、[[永正]]5年([[1508年]])- [[永禄]]7年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]([[1564年]][[3月18日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[黒田高政]]の子。[[黒田職隆]]、[[黒田休夢|小寺高友(黒田休夢)]]、[[井手友氏]]、[[松井重孝]]の父であり、[[黒田孝高]](如水・官兵衛)の祖父に当たる。官位は下野守。
 
若い頃は[[山陽地方]]随一の商業都市として繁栄していた[[備前国|備前]]の福岡(現在の[[岡山県]][[瀬戸内市]][[長船町]])に在住していたと伝わる。その後、[[姫路]]の[[広峯神社]]の[[神官]]と[[目薬]]を売ることで財を成し、[[播磨国|播磨]]の[[国人]]になったという。はじめ[[龍野城]]主[[赤松政秀]]に仕えたが、ほどなく[[御着城]]主[[小寺政職]]に主を替え、重用され、[[姫路城]]の[[城代]]となった。その後、重隆によって姫路城の修築が行われたと考えられている(築城そのものを重隆が行ったという説もある)。