「パリ・コミューン (フランス革命)」の版間の差分

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{{フランスの歴史}}
'''パリ・コミューン'''は、[[フランス革命]]のさなか、1789年から1795年まで存在した[[パリ]]政府のことである。[[バスティーユ襲撃]]の直後''[[パ{{仮市庁舎ンク|オテル・ド・ヴィル]]|fr|Hôtel de ville de Paris|en|Hôtel de Ville, Paris}}'' <!-- [[パリ市庁舎]]-->に設立され、フランス中央政府からの命令を断固として拒絶し、1792年の夏にコミューンは反乱者になった。
 
初代の市長は[[ジャン=シルヴァン・バイイ]]である。しかしバイイが[[シャン・ド・マルス公園]]の暴動集会(1791年7月17日)を鎮圧するために{{仮リンク|国民軍 (フランス)|en|French National Guard|label=国民軍}}を動員したことは不評を買い、1791年11月に{{仮リンク|ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴ|en|Pétion de Villeneuve|label=ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴ}}が役職を引き継いだ。1792年には{{仮リンク|辞退条令|en|Self-denying Ordinance}}により[[立法議会]]に参加していない{{仮リンク|ジャコバン (政治)|en|Jacobin (politics)|label=ジャコバン}}たちがコミューンの主導権を得た。