「サン・ファン・バウティスタ号」の版間の差分

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[[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]2年)9月30日、ルイス・ソテロの要求で再びアカプルコを目指して出航(船長:[[横沢将監]](しょうげん))。その航海中に約100名の水夫が亡くなった。
 
ソテロと支倉は日本へ帰る為にメキシコで再会し[[1618年]](元和4年)4月2日にアカプルコを出航し、[[1618年]](元和4年)8月10日にルソン(今の[[フィリピン]])のマニラに到着した。そこで[[オランダ]]軍への防衛を固めていたイスパニアへ売却を余儀なくされ、イスパニア戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったとされるがその後の消息は不明。支倉以下使節団は約2年のマニラ滞在後、別の船で元和6年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]([[1620年]][[9月20日]])に日本へ到着
 
===航海終了後===
支倉以下使節団は約2年のマニラ滞在後、別の船で元和6年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]([[1620年]][[9月20日]])に日本へ到着。
支倉が帰還すると元和元年([[1615年]])の豊臣家の滅亡、支倉訪欧計画の幕府側の窓口だった徳川家康の死(元和2年・[[1616年]])、慶長18年(1614年)の禁止令を端緒に大々的キリスト教・キリシタン(切支丹)弾圧が始まるなど日本は大々的に変化しており、日本は[[鎖国]][[社会]]に向かっていた。