「マイソール王国」の版間の差分

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|元首等年代終1 = [[1423年]] (初代)
|元首等氏名1 = [[ヤドゥ・ラーヤ]]
|元首等年代始2 = [[17601761年]]
|元首等年代終2 = [[17991782年]] (最盛期)
|元首等氏名2 = {{仮リンク|[[ハイダル・アリー|en|Hyder Ali}}、[[ティプー・スルタン]]
|元首等年代始3 = [[19401782年]]
|元首等年代終3 = [[19471799年]] (終代最盛期
|元首等氏名3 = [[ティプー・スルタン]]
|元首等氏名3 ={{仮リンク|ジャヤチャーマ・ラージェーンドラ・ウォディヤール|en|Jayachamarajendra Wadiyar|label=ジャヤチャーマ・ラージェーンドラ}}
|元首等年代始4 = [[1940年]]
|元首等年代終4 = [[1947年]] (終代)
|元首等氏名34 ={{仮リンク|ジャヤチャーマ・ラージェーンドラ・ウォディヤール|en|Jayachamarajendra Wadiyar|label=ジャヤチャーマ・ラージェーンドラ}}
|面積測定時期1 =
|面積値1 =
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===独立初期の歴史===
[[Image:Kanthirava.jpg|thumb|rightleft|200px|ナラサー・ラージャ1世]]
 
[[ナラサー・ラージャ1世]](在位1638 - 1659)の治世、マイソール王国は同じようにヴィジャヤナガル王国から独立した[[マドゥライ・ナーヤカ朝]]や[[ケラディ・ナーヤカ朝]]といった[[ナーヤカ朝]]などと争い、その領土の征服に成功している。
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しかし、その従兄弟[[ドッダ・デーヴァ・ラージャ]](在位1659 - 1673)の治世、ケラディ・ナーヤカ朝の大軍が首都シュリーランガパッタナを攻撃したが、マイソール王国は撃退している。このように、王国の成立初期には混乱があったが、その治世も先王と同様に王国の領土を拡大している。
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===マイソール王国の中央集権化===
[[File:Chikkadevaraja.jpg|200px|leftright|thumb|[[チッカ・デーヴァ・ラージャ]]]]
[[ファイル:Narasaraja Wadiyar II.jpg|thumb|rightleft|200px|[[ナラサー・ラージャ2世]]]]
 
===マイソール王国の中央集権化===
[[File:Chikkadevaraja.jpg|200px|left|thumb|チッカ・デーヴァ・ラージャ]]
[[17世紀]]後半、その息子[[チッカ・デーヴァ・ラージャ]](在位1673 - 1704)の治世に、それまで在地の連合政権の性格を見せていたマイソール王国の中央集権化が進められ、王権の強化が行われた。
 
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そのため、チッカ・デーヴァ・ラージャはそれを追ってきたムガル帝国の皇帝[[アウラングゼーブ]]に味方し、その代償として領土を得るなどして危機を脱した。
 
 
===カーナティック戦争とハイダル・アリーの簒奪===
[[ファイル:Narasaraja Wadiyar II.jpg|thumb|right|200px|ナラサー・ラージャ2世]]
[[File:HyderAli.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|ハイダル・アリー|en|Hyder Ali}}]]
 
その後、その息子[[ナラサー・ラージャ2世]](在位1704 - 1714)の治世、[[1707年]]に皇帝アウラングゼーブが死亡し帝国が衰退していくと、ムガル帝国の広大な領土は徐々に解体され、[[1713年]][[カルナータカ太守]]([[アルコット]]太守)が独立してカルナータカ地方政権が成立するなど、南インドはこれらをはじめとするいくつかの地方勢力が分立する形となり、マイソール王国もその主権から離れていった。
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===カーナティック戦争と簒奪者ハイダル・アリーの簒奪による近代化と領土拡大===
[[Fileファイル:HyderAli.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|ハイダル・アリー|en|Hyder Ali}}]]
 
17世紀、[[イギリス]]は[[マドラス]]に、[[フランス]]は[[ポンディシェリー]]にそれぞれ南インドに確立し、[[18世紀]]になると植民活動に乗り出そうとしていた。[[1740年]]以降、カルナータカ地方政権で内紛がおこり、イギリス、フランスや現地勢力の争いと結び付き、[[1744年]]には南インドでは以降3次にわたる[[カーナティック戦争]](~[[1761年]])が勃発した。マイソール王国もこの戦争に参加し、第2次カーナティック戦争以降、王国のムスリム軍人である{{仮リンク|ハイダル・アリー|en|Hyder Ali}}が活躍した第2次、第3次カーナティック戦争では、ハイダル・アリーは王国の軍司令官の1人としてその天才的な軍事才能を発揮し、マラーター同盟やニザーム王国との戦いを有利に進め、マイソール王{{仮リンク|クリシュナ・ラージャ・ウォディヤール2世|en|Krishnaraja Wadiyar II|label=クリシュナ・ラージャ2世}}(在位1733 - 1760)はハイダル・アリーを重用し、[[1759年]]に彼を王国の軍総司令官と宰相に任命した。
また、17世紀、[[イギリス]]は[[マドラス]]に、[[フランス]]は[[ポンディシェリー]]にそれぞれ南インドに確立し、[[18世紀]]になると植民活動に乗り出そうとしていた。
 
[[1740年]]以降、カルナータカ地方政権で内紛がおこり、イギリス、フランスや現地勢力の争いと結び付き、[[1744年]]には南インドでは以降3次にわたる[[カーナティック戦争]](~[[1761年]])が勃発した。マイソール王国もこの戦争に参加し、第2次カーナティック戦争以降、王国のムスリム軍人である{{仮リンク|ハイダル・アリー|en|Hyder Ali}}が活躍した第2次、第3次カーナティック戦争では、ハイダル・アリーは王国の軍司令官の1人としてその天才的な軍事才能を発揮し、マラーター同盟やニザーム王国との戦いを有利に進め、マイソール王{{仮リンク|クリシュナ・ラージャ・ウォディヤール2世|en|Krishnaraja Wadiyar II|label=クリシュナ・ラージャ2世}}(在位1733 - 1760)はハイダル・アリーを重用し、[[1759年]]に彼を王国の軍総司令官と宰相に任命した。
 
しかし、[[1760年]]にその失脚計画が露見したため、ハイダル・アリーはクリシュナ・ラージャ2世を宮殿に幽閉して王位を簒奪し、自ら新たに王(在位1760 - 1782)となり、ムスリム王朝を樹立した。翌[[1761年]]には、ムガル帝国の皇帝[[シャー・アーラム2世]]による王位の認可を受け、その正当性を確保した。一方、旧王家のウォディヤール家は家臣の地位に落とされ、[[1799年]]までの間その当主は新王朝の王によって選ばれた。
 
===マイソール王国の近代化と領土拡大===
[[ファイル:"Hyder Ali," a steel engraving from the 1790's (with modern hand coloring).jpg|thumb|right|200px|ハイダル・アリー]]
 
新たな王ハイダル・アリーは軍を西洋式にするなどの近代化を進め、行政機構の中央集権化を進め、そのひとつに、[[ザミーンダール]]による徴税請負制を徐々に廃し、国家による直接徴税を行い、税収の増加を目指そうとした。また、ハイダル・アリーは宗教に比較的に寛容であり、彼の最初の宰相をはじめ文官、軍の指揮官や兵士ほとんどはヒンドゥー教徒だった。さらに、ハイダル・アリーはマイソール王国の領土の拡大を目指し、[[1763年]][[3月]]にケラディ・ナーヤカ朝を滅ぼし、[[ケーララ]]地方にも侵略し、[[1766年]][[ザモリン]]の[[カリカット]]を落とし、[[1767年]]初頭には[[トラヴァンコール王国]]に侵入し、急速に南インドに領土を拡大した。
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===ティプー・スルタンの統治===
[[Image:Tipu Sultan BL.jpg|thumb|right|[[ティプー・スルタン]]]]
 
新王ティプー・スルタンは父同様に広い国際視野を持ち、イギリスと対立していた[[フランス]]はもとより、トルコのオスマン帝国や[[アフガニスタン]]の[[ドゥッラーニー朝]]、アラビア半島のオマーンに使者を送り、イギリスに対しての同盟を持ちかけた。
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===マイソール王国の藩王国化とインド併合===
[[File:Chamarajednra Wadiyar X of Mysore1877.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|チャーマ・ラージャ・ウォディヤール10世|en|Chamarajendra Wadiyar X|label=チャーマ・ラージャ10世}}]]
1799年[[6月]]にイギリスは戦後処理として、ヒンドゥー王家のウォディヤール家を復活させ、幼王{{仮リンク|クリシュナ・ラージャ・ウォディヤール3世|en|Krishnaraja Wadiyar III|label=クリシュナ・ラージャ3世}}(位1799 - 1831)を即位させ、マイソール王国を[[藩王国]]化した。また、マイソール王国の首都はシュリーランガパッタナからマイソールへと移された。一方、ティプー・スルタンの一族などの旧王家は[[ヴェールール]]の城に住むこととなり、そこで年金生活を行った。しかし、[[1806年]][[7月]]にヴェールールでシパーヒーらがイギリスに対して反乱を起こすと、旧王家の一族もティプー・スルタンの息子をはじめ参加したが失敗し、捕えられて[[カルカッタ]]へ強制送還された。
 
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*ナラサー・ラージャ1世(Narasa Raja I, 在位1638 - 1659 )
*ドッダ・デーヴァ・ラージャ(Dodda Deva Raja, 在位1659 - 1673)
*[[チッカ・デーヴァ・ラージャ]](Chikka Deva Raja, 在位1673 - 1704)
*{{仮リンク|ナラサー・ラージャ2世|en|Kanthirava Narasaraja II}}(Narasa Raja II, 在位1704 - 1714)
*{{仮リンク|クリシュナ・ラージャ1世|en|Dodda Krishnaraja I}}(Krishna Raja I, 在位1714 - 1732)
*チャーマ・ラージャ7世(Chama Raja VII, 在位1732 - 1734)
*{{仮リンク|クリシュナ・ラージャ・ウォディヤール2世|en|Krishnaraja Wadiyar II|label=クリシュナ・ラージャ2世}}(Krishna Raja II, 在位1734 - 1760)
*{{仮リンク|[[ハイダル・アリー|en|Hyder Ali}}]](Haidar Ali, 在位1760 - 1782)
*[[ティプー・スルタン]](Tipu Sultan, 在位1782 - 1799)
*{{仮リンク|クリシュナ・ラージャ・ウォディヤール3世|en|Krishnaraja Wadiyar III|label=クリシュナ・ラージャ3世}}(Krishna Raja III, 在位1799 - 1831)