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zh:大名府故城 2014年2月19日 (三) 04:31 より
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その後[[金 (王朝)|金]]が[[華北]]全域を支配するようになると、国境の軍事拠点としての大名府の重要性は失われたが、[[元 (王朝)|元代]]には[[大名路]]路治、[[明|明]][[清|清代]]には[[大名府]]府治とされた。明代の[[1377年]](洪武10年)に大名県は廃止となり[[魏県]]に編入されているが、[[1382年]](洪武15年)に再設置され、現在に至る。
 
== 大名府故城 ==
大名市街の北東郊外にある大街郷にはいまもかつての大名府の遺跡が残る。宋の[[仁宗 (宋)|仁宗]]の治世である[[慶暦]]二年([[1042年]])、大名府は「北京」として、「東京」(開封府、現在の[[開封市]])の[[陪都]]となった。この後、宰相の[[呂夷簡]]により大名府は拡大され、宮城をそなえる大都市となった。しかし北宋以後は大名府はしだいに衰落の道をたどり、[[明]]朝の[[洪武]]三十四年([[1401年]])、[[漳河]]と[[衛河]]の洪水で水に浸かり放棄された。同年、艾家口に大名府が移転・再建された。これが現在の大名市街である。廃墟となった宋代の大名府故城には、宮殿の基壇や官庁街・住宅街の町割りがよく残っており、[[2006年]]に中国国務院によって[[全国重点文物保護単位]]に指定された。
 
大名府の建築と規模は広壮であり、四つの殿閣、十四座の城門、二つの水関があった。外城は「京城」といい、外周は四十八里二百有六歩の長さで、九座の城門があった。宮城あるいは内皇城は、外周の長さは三里一百九十八歩で、五個の城門があった。
 
== 行政区画 ==