「台湾沖航空戦」の版間の差分

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=== 10月12日 ===
10月12日、上空に低い雲が垂れ込める中、米軍の第3艦隊は台湾に延べ1,378機を投入して大空襲を行った。同日、日本軍はT攻撃部隊を投入し、アメリカ艦隊への攻撃を開始する。海軍[[爆撃機]]「[[銀河_(航空機)|銀河]]」や[[艦上攻撃機]]「[[天山_(航空機)|天山]]」、陸軍爆撃機「[[四式重爆撃機|飛龍]]」などからなる航空機90機余りが出撃したが、照明弾による照明が雲のためまったく不十分であり、攻撃に手間取った。そこへアメリカ軍の対空射撃を受け54機が未帰還となった。一方、第3艦隊の搭乗員は翌日の攻撃の事もあり、十分な睡眠が取れなかったと言う。
攻撃は、空母フランクリンに一発、重巡キャンベラに二発命中したが、致命的なものではなかった<ref>サミュエル・エリオット・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』光人社310頁</ref>。
カール・ソルバーグは米軍側から見た印象として12日夜の[[一式陸上攻撃機]]による攻撃を挙げ、組織的な空襲と言うよりは調整の取れない散発的なものであるというレーダー員の感想を示している<ref>『決断と異議』P93</ref>。
 
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:「大元帥陛下には本日大本営両幕僚長を召させられ[[寺内寿一|南方方面陸軍最高指揮官]]、[[豊田副武|連合艦隊司令長官]]、[[安藤利吉|台湾軍司令官]]に対し左の勅語を賜りたり」
:「勅語 朕カ陸海軍部隊ハ緊密ナル協同ノ下敵艦隊ヲ邀撃シ奮戦大ニ之ヲ撃破セリ 朕深ク之ヲ嘉尚ス 惟フニ戦局ハ日ニ急迫ヲ加フ汝等愈協心戮力ヲ以テ朕カ信倚ニ副ハムコトヲ期セヨ」
 
;戦果検証
同航空戦では戦果を大きく誤認している。誤認の原因としては以下が挙げられる。夜間攻撃に予定されていた照明隊が吊光投弾使用の困難からほぼ実施されず、夜間索敵となったが、接触機もなく、攻撃避退、戦果確認が至難であり、自爆機の海面火災も誤認の原因となった<ref>戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448-449頁</ref>。捷号作戦では夜間攻撃が重視されていたが、元来夜間攻撃は目標戦果認識困難である上、練度も上達する時間的余裕がなかった。<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 721-722頁</ref>米側のハルゼーも攻撃を受けた際に米艦隊が炎上した様子を見て大損害を受けたと誤認しており、日本の米機動部隊撃滅報告も無理のないことだった<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 722頁</ref>。
 
壊滅したはずの米戦力が発見され日吉司令部で[[淵田美津雄]]、[[鈴木栄二郎]]、[[田中正臣]]、[[中島親孝]]の4人で再検討がされ4隻撃破程度撃沈なしと判断する。軍令部で現地派遣調査させた[[三代辰吉]]も同様の判断をしている。<ref>戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448頁</ref>戦後[[日本放送協会|NHK]]製作[[テレビ番組]]『幻の大戦果 大本営発表の真相』のインタビューで[[田中正臣]]はこの再検討の際に話し合われた内容について問われると「覚えていない。そういうこと(忘れてしまうこと)もある」と答えている。
1949年7月31日[[淵田美津雄]]は[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]からの質問に答えた陳述書には、田中を招致し鈴木と淵田で田中の持参した資料を検討し中島の意見も求めたとある。<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 716頁</ref>
 
陸軍では、[[大本営]]情報参謀であった[[堀栄三]]の回想によれば、台湾沖航空戦中にたまたま[[鹿児島市|鹿児島]]に滞在していたところ、[[鹿屋航空基地|鹿屋]]で実際の航空兵から戦果確認方法について聞き取り調査を行い内容に疑問を持ち、「当該戦果は重巡数隻程度と推測」と戦闘中に既に陸軍参謀本部情報課に連絡し、その後情報課から作戦課へ報告がされたが、省みられることがなかったという。
 
== 参加兵力 ==
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*小破:[[ハンコック (空母)|ハンコック]](正規空母)
 
== 影響結果 ==
;戦力
この航空戦で[[捷号作戦]]で期待された[[T攻撃部隊]]のほとんどを消耗してしまった。それでも搭乗員80組が残っており、ただちに再編に着手するが、早くても10月末まで回復の見込みがなく、[[捷号作戦]]の[[レイテ沖海戦]]で、第六基地航空部隊は精鋭のT攻撃部隊の活躍を期待できず、練度の低い混成の実働機300機にも及ばない航空兵力を主力として臨まなければならなくなった<ref>戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで712頁</ref>。
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;戦果誤認
同航空戦では戦果を大きく誤認している。誤認の原因としては以下が挙げられる。夜間攻撃に予定されていた照明隊が吊光投弾使用の困難からほぼ実施されず、夜間索敵となったが、接触機もなく、攻撃避退、戦果確認が至難であり、自爆機の海面火災も誤認の原因となった<ref>戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448-449頁</ref>。捷号作戦では夜間攻撃が重視されていたが、元来夜間攻撃は目標戦果認識困難である上、練度も上達する時間的余裕がなかった。<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 721-722頁</ref>米側のハルゼーも攻撃を受けた際に米艦隊が炎上した様子を見て大損害を受けたと誤認しており、日本の米機動部隊撃滅報告も無理のないことだった<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 722頁</ref>。
連合艦隊参謀[[淵田美津雄]]大佐によれば、誤認について参謀長申進を以て注意をしており、[[捷号作戦]]は敵空母10隻健在のもと対処するように通達したため、連合艦隊、軍令部、各航空隊も敵空母健在と判断していたという<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 728頁</ref>。しかし、10月17日にフィリピン攻略に襲来したアメリカ艦隊を避難中の残存艦隊であると希望的に観測し、第一遊撃艦隊及び機動部隊への[[捷号作戦]]発動により発生した[[レイテ沖海戦]]に影響したともされる。
 
壊滅したはずの米戦力が発見されると連合艦隊(日吉)司令部で、連合艦隊航空参謀[[淵田美津雄]]中佐、軍令部航空参謀[[鈴木栄二郎]]中佐、第二航空艦隊兼T攻撃部隊航空参謀[[田中正臣]]少佐、連合艦隊情報参謀[[中島親孝]]少佐の4人で再検討が行われた。1949年7月31日に[[淵田美津雄]]が[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]からの質問に答えた陳述書によれば、田中を招致して、淵田と鈴木で田中の持参した資料を検討し、中島の意見も求めたという<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 716頁</ref>。連合艦隊参謀[[淵田美津雄]]大佐によれば、誤認について参謀長申進を以て注意をしており、10月17日「[[捷一号作戦]]警戒」発令で敵空母10隻健在のもと対処するように通達したため、連合艦隊、軍令部、各航空隊も敵空母健在と判断していたという<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 728頁</ref>。戦後、[[田中正臣]]はこの再検討の際に話し合われた内容について「覚えていない。そういうこと(忘れてしまうこと)もある」と話している<ref>[[日本放送協会|NHK]]製作[[テレビ番組]]『幻の大戦果 大本営発表の真相』インタビュー</ref>。軍令部で現地に派遣調査させた[[三代辰吉]]も同様の判断をした<ref>戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448頁</ref>。
陸軍でも海軍の誤認戦果修正を知らされずに[[ルソン島]]での迎撃方針をレイテ島での決戦に変更し、[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]、[[第26師団 (日本軍)|第26師団]]をはじめとする決戦兵力をレイテ島へ輸送した。しかし、第1師団を除く大半が輸送途中に空襲を受け、重装備や軍需品を海上で喪失、懸命に積み上げてきた決戦準備は水の泡となった。さらに、ルソン島で兵力が引き抜かれた穴を補うため、台湾から[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]をルソン島へ投入、玉突きで沖縄から[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]を台湾へ移動させた。こうして結果的に[[沖縄戦]]での戦力不足の原因ともなった。
また、この戦果が虚報であることがフィリピンの[[山下奉文]]大将に出張時に報告され、現場と、虚報を前提にして作戦立案した大本営との方針対立を招く一因となった。
 
軍令部参謀[[藤森康男]]によれば、疑念もあり軍令部作戦課は、[[源田実]]参謀を中心にさらに検討を加えたが、さしあたり公的には現地部隊報告を基礎に資料作成するほか名案もなかった<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 447頁</ref>。戦果誤認は以前から問題になっており、[[中澤佑]]軍令部部長によれば、連合艦隊司令部の報告から不確実を削除し、同司令部に戦果確認に一層配慮するように注意喚起していたが、同司令部より「大本営は、いかなる根拠をもって連合艦隊の報告した戦果を削除したのか」と強い抗議電が参謀長名で打電され、結局反論なくうやむやになっていたという<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 726頁</ref>。
なお、この海戦の報道以降「第3艦隊」とか「[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]]」、「[[第38任務部隊|第58任務部隊]]」などという記述が見受けられるようになったが、第3艦隊と第5艦隊が単にトップ([[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ハルゼー]]提督が指揮するときは第3艦隊、[[レイモンド・スプルーアンス|スプルーアンス]]提督が指揮するときは第5艦隊。[[チェスター・ニミッツ|ニミッツ]]太平洋艦隊司令長官は指揮官を休養させるため交互に2人に指揮をとらせた。)と幕僚と一部艦船の差異だけで実質同一艦隊であるということに、日本海軍情報部は気付いており、1944年10月11日の電報で各艦隊司令長官宛に通知している。しかし、当時の海軍軍人を含む大部分の日本人は、第3艦隊と第5艦隊を別と認識していたようである。海戦の翌年、第58任務部隊(第38任務部隊)が[[硫黄島の戦い|硫黄島攻略戦]]援護で関東方面を空襲した際の報道にも、「台湾沖航空戦で第3艦隊が潰滅した後、急遽残存艦船を以て第5艦隊を編成し・・・」という新聞記事もある。
 
陸軍では、[[大本営]]情報参謀であった[[堀栄三]]の回想によれば、台湾沖航空戦中にたまたま[[鹿児島市|鹿児島]]に滞在していたところ、[[鹿屋航空基地|鹿屋]]で実際の航空兵から戦果確認方法について聞き取り調査を行い内容に疑問を持ち、「当該戦果は重巡数隻程度と推測」と戦闘中に既に陸軍参謀本部情報課に連絡し、その後情報課から作戦課へ報告がされたが、省みられることがなかったという。
 
陸軍でも海軍の誤認戦果修正を知らされずに[[ルソン島]]での迎撃方針をレイテ島での決戦に変更し、[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]、[[第26師団 (日本軍)|第26師団]]をはじめとする決戦兵力をレイテ島へ輸送した。しかし、第1師団を除く大半が輸送途中に空襲を受け、重装備や軍需品を海上で喪失、懸命に積み上げてきた決戦準備は水の泡となった。さらに、ルソン島で兵力が引き抜かれた穴を補うため、台湾から[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]をルソン島へ投入、玉突きで沖縄から[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]を台湾へ移動させた。こうして結果的に[[沖縄戦]]での戦力不足の原因ともなった。
また、この戦果が虚報であることがフィリピンの[[山下奉文]]大将に出張時に報告され、現場と、虚報を前提にして作戦立案した大本営との方針対立を招く一因となった。
 
== 脚注 ==