「セシル・フィルダー」の版間の差分

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{{by|1982年}}の[[ドラフト会議 (MLB)|MLBドラフト]]4巡目で[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]に指名され契約。{{by|1985年}}、[[トロント・ブルージェイズ]]で[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]初昇格。しかし、同時期にブルージェイズには、[[ウィリー・アップショー]](後に[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]でプレー)および[[フレッド・マグリフ]]が競合する一塁及び[[指名打者|DH]]にいたことから、左投手専門のDH、一塁手および[[代打]]要員で、なかなか出場機会に恵まれなかったため、日本を含めてレギュラーを確約できる球団を求めていたところ、[[阪神タイガース]]から'''4番打者'''としてオファーがあったこともあり、初めてアメリカ国外でプレーすることとなる。
 
{{by|1989年}}に[[阪神タイガース]]に入団し、来日。そのスイングの豪快さから、「荒熊」という[[愛称|ニックネーム]]が付けられる。来日当初は[[変化球]]が全く打てなかったが、当時の[[石井晶]]チーフ兼打撃コーチ(ヘッド格)、[[柏原純一]]打撃コーチ、[[村山実]][[プロ野球監督|監督]]らの指導により、変化球打ちを覚え、シーズン開幕後は[[本塁打]]を量産するようになる。特に対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]戦には滅法強く、[[横浜スタジアム]]では1試合で場外本塁打を含む3打席連続本塁打を放つなど、対大洋戦だけで本塁打16本を記録する。逆に、対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦は本塁打3本と弱かった。
 
同年9月14日の対巨人戦([[東京ドーム]])で、[[水野雄仁]]から[[三振]]を喫した際、腹いせに地面に叩きつけた[[バット (野球)|バット]]が手に当たり[[骨折]]。そのままシーズンを棒に振り、[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]のタイトルを逃す。それでも、長打率.6276は、その年両リーグ最多の49本塁打を放った[[ラルフ・ブライアント]]の.6275を上回って両リーグ1位であった。オフは契約更新を望む阪神に対して、年俸の大幅アップと5年契約を要求するが、合意に達せず1年で退団となった<ref>http://sankei.jp.msn.com/west/west_sports/news/120106/wsp12010611010002-n4.htm</ref>。その後、デトロイト・タイガースと契約する。