「アストラハン州」の版間の差分

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[[1630年]]に{{仮リンク|四オイラト (部族連合)|en|Four Oirats|label=オイラート四部}}(ドルベン・オイラト、瓦剌)のひとつ[[トルグート]]部の指導者{{仮リンク|ホー・ウルロク|ru|Хо-Урлюк|de|Khu Urluk}}太師に[[カルムイク人]]が率いられて[[ヴォルガ川|ヴォルガ]]河畔([[ノガイ・オルダ]])へ移住し{{仮リンク|カルムイク・ハン国|en|Kalmyk Khanate}}([[1630年]] - [[1771年]])が成立。[[1670年]]、[[ステンカ・ラージン]]の率いた軍勢にカルムイク人も参加し、[[アストラハン]]が占領され、ロシア政府に対する抵抗の拠点となった。
 
18世紀に入ると、ピョートル1世がアストラハンに[[造船所]]を建設。[[1704年]]には、ピョートル1世が導入した新税に反発して反政府の蜂起が発生し、当時の地方長官が処刑される事件が起こったが、軍によって鎮圧された。[[1717年]][[11月2日]]に[[ロシア帝国]]が{{仮リンク|[[アストラハン県|ru|Астраханская губерния|en|Astrakhan Governorate}}]]を設置。[[1719年]][[11月23日]]に、[[クリミア・ハン国]]や東方の[[タタール]]([[ジュンガル]])との緩衝地帯形成を目的とする、ロシア皇帝[[ピョートル1世|ピョートル大帝]]の命令で人口希薄なヴォルガ川沿岸の空白地の耕作へ[[ドイツ人]]の移民誘致が始まり、[[ロシア人]]や[[ウクライナ人]]、[[ドイツ人|ドイツ系]]([[ヴォルガ・ドイツ人]])の移住者に圧迫されて、カルムイク人は荒地に押しやられた。
 
[[1755年]]に清の乾隆帝がジュンガル・ホンタイジ国を征服({{仮リンク|第2次オイラト・満州戦争|en|Zunghar_Khanate#The_second_Oirat-Manchu_war}})、疫病([[天然痘]])の蔓延でカルムイク人の父祖の地が空き地になる。[[1771年]]、ヴォルガ・カルムイク人の指導者{{仮リンク|ウバシ|ru|Убаши|de|Ubashi Khan}}は、父祖の地である[[東トルキスタン]]の[[イリ地方]]への帰還を決定した。