「佐々木主浩」の版間の差分

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{{by|1998年}}は父親の一周忌でもある7月7日に(1996年8月31日以来の)675日ぶりの敗戦を記録するまでシーズン自責点0を続ける。結局敗戦はその1敗のみで、登板数51試合、30セーブ以上挙げた投手の中でも歴代トップの防御率0.64(自責点4)という安定感ある成績を残し、史上初の40セーブ越えであり当時プロ野球記録で、135試合制の記録としは歴代最多となる45セーブ(当時公式記録の46セーブポイントも日本記録)を挙げ、4年連続となる最優秀救援投手賞を獲得して横浜の優勝に大きく貢献した<ref>この45セーブは計算上3試合に1セーブを記録していることになり、46セーブを記録している[[岩瀬仁紀]](3.17試合)、[[藤川球児]](3.13試合)を超える記録(非公式)である。防御率0点台かつ30セーブ以上を2度記録した投手は他に藤川がいるが、佐々木はストッパーとして唯一の2年連続防御率0点台を記録している。</ref>。10月8日のリーグ優勝を決めた試合にも抑えで登板し、[[新庄剛志]]から三振を奪って胴上げ投手となった。佐々木は後に自らこの試合を「ベストゲーム」としている<ref>ISBN 4163678301 『日本野球25人私のベストゲーム』 文藝春秋、2006年、270頁</ref>。この年はシーズンのセーブ、セーブポイント数の日本記録に加え、6月4日の巨人戦で[[鹿取義隆]]を抜いて通算217セーブポイントの日本新記録(当時)、6月17日の阪神戦で17試合連続セーブの日本新記録、6月30日の広島戦で22試合連続セーブポイントの日本新記録、8月5日の阪神戦で[[江夏豊]]を抜いて通算194セーブの日本新記録(当時)、8月7日の広島戦でプロ野球史上初の2年連続30セーブを達成するなど、日本記録ラッシュが続いた。6月と9月の月間MVPも獲得している。9月19日には、横浜の優勝を祈願して[[横浜駅]]東口の地下街[[横浜ポルタ|ポルタ]]内に、佐々木のフォークボールの握りを再現したブロンズ像を「ご神体」とした「ハマの大魔神社」が設置され、翌{{by|1999年}}1月17日に撤去されるまでの間に約1,660万円のお賽銭が集まった<ref>お賽銭は全額横浜市[[社会福祉協議会]]に寄付された。</ref>。[[1998年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも第6戦で[[金村義明]]を併殺打に打ち取って胴上げ投手となり、[[最優秀選手 (野球)|MVP]]をはじめ、[[正力松太郎賞]]、[[日本プロスポーツ大賞]]を受賞。シーズンオフには[[イチロー]]とともにプロ野球史上初めて年俸5億円に達した。また「ハマの大魔神」はこの年の[[新語・流行語大賞]]を受賞するなど、社会現象となるほどの活躍を見せた。
 
{{by|1999年}}に[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を取得し、メジャー移籍が可能になる。シーズン中に故障し戦線を離脱するが、シーズン中にもかかわらず手術を受けたことに対して球団は不信感を持ち、佐々木も移籍を匂わせるような発言をした。オフには[[トニー・アタナシオ]]を代理人とし、FA権を行使して[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の[[シアトル・マリナーズ]]と総額1200万ドル+出来高の3年契約(4年目は年俸500万ドルの球団オプション)を結ぶ。当時のマリナーズ筆頭オーナーであった[[任天堂]]の[[山内溥]]は「メジャーリーグの[[ピカチュウ]]になってほしい」とコメントした。メジャー移籍後、横浜球団が背番号22を他の選手に渡したのは、佐々木の行動に対する失望や不信感からだとされている。佐々木は日本一になった前年のオフ、球団に「メジャーに行きたい」と訴えたが、強引に引き留められた
 
=== マリナーズ時代 ===