「モンゴル系民族」の版間の差分

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== 分布 ==
{{出典の明記|section=1|date=2014年3月}}
[[Image:Mongolia and Mongol Autonomous Subjects in The PRC.png|thumb|280px|モンゴル国および中華人民共和国におけるモンゴル族の自治区域]]
多くがモンゴル人の[[ハルハ]]と呼ばれる集団に属する。前近代からモンゴルを自称としている人々のうち、ハルハ以外の集団では、中華人民共和国が内モンゴル自治として区分する[[モンゴル高原]]の南部地方に居住するものが多い。内モンゴルをはじめとする中国領内の各地に住むモンゴル人は、中国語では'''[[モンゴル族]]'''と呼ばれ、[[中国の少数民族]]のひとつに数えられている。
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== 文化 ==
{{出典の明記|section=1|date=2014年3月}}
[[遊牧民族]]として知られているが、いずれの地域でも、現在は[[牧畜]]をやめて都市や農村に居住する割合がかなり多い。
 
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=== 人名 ===
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伝統的には、モンゴル人は縁起の良い言葉や仏教的な言葉を選んで子供を名付ける。姓にあたるものはないが、氏族(オボク)の名称が姓に近い役割を持ち、中国の内モンゴル自治区では氏族名を姓として中国式に姓名で表記することがある。例えば、チンギス・カン家のオボクはボルジギン氏族(孛儿只斤氏)であるため、内モンゴル出身のチンギス・カンの子孫はボルジギン・某(孛儿只斤某)と称する。これに対し、モンゴル国ではロシアの影響で父の名を姓の代わりに使い、本人の名の前に置く(父称)。婚姻の際は[[夫婦別姓]]となる。
 
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=== モンゴル帝国の形成 ===
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イェスゲイの死後、一時は支配下の部民に見放されるなどの苦労を重ねつつタタル部やタイチウト氏、ジャダラン氏などのモンゴル部内の敵対勢力と戦って独力で勢力を築き上げたテムジン(チンギス・カン)は、やがてモンゴル部族の大部分を統合してそのカン(チンギス・カン)となっていた。この力を背景にチンギス・カンは、[[1203年]]に高原中部の[[ケレイト]]、[[1205年]]に高原西部の[[ナイマン]]を滅ぼし、南部の[[オングト]]、北東部の[[オイラト]]などの諸部族を服属させてモンゴル高原の全部族を統合し、[[1206年]]に大(イェケ)モンゴル・ウルス、すなわちモンゴル帝国を築いた。これ以降、モンゴルはもともとモンゴル・ウルスに所属した遊牧民のみならず、チンギス・カンとその子孫の歴代カアン(ハーン)の統治する大モンゴル・ウルスに集った全ての部族の総称に転化する。
 
=== モンゴル帝国以降のモンゴル ===
{{出典の明記|section=1|date=2014年3月}}
モンゴル高原の側では、中国を支配したモンゴル帝国([[元 (王朝)|元]])がモンゴル高原に北走して[[北元]]となった後、北元の[[クビライ]]の王統に従った諸部族と、これから離反してオイラト族を中心に部族連合を形成した諸部族の二大集団に分かれた。後者はドルベン・オイラト(四オイラト)と呼ばれるようになり、前者はこれに対してドチン・モンゴル(四十モンゴル)と称される部族集団となる。明は、四十モンゴルを韃靼(タタールの漢訳名)と呼んだため、この時代のモンゴルのことは[[タタール]]と呼ばれることが多いが、自称はモンゴルのままであり、[[清]]代には蒙古(モンゴル)の呼称が復活する。清はモンゴルを服属させ、[[チベット仏教]]による徹底的な弱体化策を行った。
 
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*[[遊牧民]]
 
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[[Category:モンゴル|*]]
[[Category:モンゴル系民族]]