「クレメンス・ノン・パパ」の版間の差分

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生い立ちについては不明であり、成熟期に関する詳細さえ全貌はつかめない。生年については、[[1510年]]から[[1515年]]の間とされている。おそらく[[オランダ]]の[[ゼーラント]]に生まれたようだが、証拠文書はこれと矛盾することを伝えている。それでも現在の[[ベルギー]]か[[オランダ]]の出身なのは間違いない。[[1544年]]頃に[[ブルッヘ]]の聖堂に勤務し、その直後に[[アントウェルペン]]の楽譜出版社の[[ティールマン・スザート]]と取引関係に入る。[[1545年]]から[[1549年]]まで、おそらく[[神聖ローマ帝国]]皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の宮廷礼拝堂の[[宮廷楽長|楽長]]を務め、[[ニコラ・ゴンベール|ゴンベール]]の前任者であったらしい。[[1550年]]には[[デン・ボス|スヘルトーヘンボス]]のマリア修道会に勤務。[[ライデン]]などでも居住・活動した可能性がある。伝えるところによると、同時代に興った[[プロテスタント]]に興味を寄せていたらしい。[[1555年]]または[[1556年]]に逝去。
 
クレメンス・ノン・パパ」という愛称呼び名は、同時代の[[ローマ教皇]][[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]と区別する必要から、冗談交じりためと「パパ(教皇)ではない」付けられ加えとする説があるが、こ。つま教皇は1534年に没しており、1546年より前に出版された曲集にはローマ教皇でノン・パパ」の表示はないほう。したがって彼が一時住んだ西フランドル詩人ヤコブス・クレメンス」の謂パパと区別するためとする説が有力である。
 
==音楽作品とその影響==