「クローヴィス1世 (フランク王)」の版間の差分

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| 画像 = François-Louis Dejuinne (1786-1844) - Clovis roi des Francs (465-511).jpg
| 画像サイズ = 230px
| 画像説明 = フランク王クロヴィス1世([[:en:François-Louis Dejuinne|Dejuinne]]作)
| 在位 = [[509481年]]-[[511年]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = 466年頃
| 生地 =
| 死亡日 = 511年
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| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[クロティルダ (フランク王妃)|クロティルダ]]
| 配偶者2 =
| 配偶者3 =
| 配偶者4 =
| 配偶者5 =
| 配偶者6 =
| 配偶者7 =
| 配偶者8 =
| 配偶者9 =
| 配偶者10 =
| 子女 =
| 王家 =
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| サイン =
}}
'''クロヴィス1世'''<ref>クロヴィスはフランス語読み。[[ラテン語|古代ラテン語]]表記の'''クローヴィス'''(Clovis)、ラテン語では'''クロェクス'''({{lang-la|Chlodovechus}})または[[古高ドイツ語]]および[[中高ドイツ語]]表記の'''クロードヴェヒ'''、'''クロートヴィヒ'''(Chlodowech, Chlodwig)と長音される表記もみられる。現代[[フランス語]]の[[ルイ]](Louis)、現代[[ドイツ語]]の[[ルートヴィヒ]](Ludwig)に当たる。</ref>({{lang-fr-short|Clovis Premier}}, {{IPA-fr|klɔ.vis}}<small> [http://ja.forvo.com/word/clovis_ier/#fr 発音例]</small>, [[466年]] - [[511年]])は、[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]の初代[[フランク王の一覧|国王]](在位[[481年]] - 511年)である。日本では大半の書籍<ref>各社の高校世界史関連の教科書・参考書、一般書など</ref>では、フランス語読みの「クロヴィス」でなく、英語ないしドイツ語読みに近い'''クローヴィス1世'''の表記が用いられる。
 
クロヴィスは一夫多妻制の生活を送っていたが、妻の1人であった王妃[[クロティルダ (フランク王妃)|クロティルド]]の影響で、(形式的であるが)[[カトリック教会|キリスト教アタナシウス派]](カトリック教会)に改宗して、これを保護したのでガリアでの布教活動に大きな貢献があった。
 
{{要出典範囲|クロヴィス2世や3世もいるが、クロヴィス1世の存在が偉大であるため、単にクロヴィスといえば、通常クロヴィス1世を指す|date=2012年9月}}<!--一般論から言っても、そういうことはないでしょう・・。通常文脈から判断する類のものです-->。
 
== 概要 ==
[[サリー・フランク族]]の[[フランク王の一覧|王]]{{仮リンク|キルデリクス1世|en|Childeric I}}を父、{{仮リンク|テューリンゲン族|de|Thüringer|en|Thuringii}}の{{仮リンク|バジーナ (テューリンゲン族)|en|Basina of Thuringia|label=バジーナ}}を母として[[トゥルネー]](現ベルギー領)で生まれた。当時は現代の[[フランス]]・[[ベルギー]]国境付近のトゥルネー、カンブレーを中心とする[[ライン川]]低地西部を占めていたに過ぎなかった。
 
[[481年]]に即位したクロヴィスはライン川北岸の[[フランク人]]を統一、[[486年]]には[[ガリア]]北部を支配していた[[西ローマ帝国|西ローマ]]系軍閥[[グリフラニウス|ュアグリウス]]を{{仮リンク|ソワソンの戦い|en|Battle of Soissons (486)|}}で破り、版図を一挙に[[ロワール川]]北部に拡大、旧ローマ属州ベルギカ・セクンダを支配下に治めた<ref>R.ミュソ=グラール、p.42。</ref>。さらにクロヴィスは妹のアウドフレドを[[東ゴート王国]]の[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]大王に嫁がせて同盟を固め、[[493年]]には[[ブルグンド王国]]の王女[[クロティルダ (フランク王妃)|クロティルド]]とソワソンで結婚した。
 
[[496年]]から[[497年]]にかけて、{{仮リンク|トルビアックの戦い|en|Battle of Tolbiac|}}で[[アラマンニ人]]に勝利した後、王妃クロティルドの薦めで[[カトリック教会|カトリック]]に改宗した。[[東ローマ帝国]]の人物との接触の長いフランク族の王クロヴィスは[[キリスト教]][[アタナシオス派|ニカイア派]]を信仰していた<ref>R.ミュソ=グラール、p.81。</ref>。この改宗はゲルマン民族諸王の中で初めて行われたカトリックへの改宗であった。一方[[西ゴート族]]や[[ヴァンダル族]]はすでにキリスト教に改宗していたが、その宗派は[[アリウス派]]であった。当時のガリア住民は大部分カトリックであったため、クロヴィスのカトリック改宗はガリア領内のローマ系市民との絆を強化するものであった。498年に[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で戴冠式をおこなった。
 
[[500年]]には[[ディジョン]]でブルグンド王国と戦い、[[507年]]には[[アルモリカ人]]の支援を得て{{仮リンク|ヴイエの戦い|en|Battle of Vouillé|}}<!--トゥールーズ近郊ではありません-->で[[西ゴート王国|西ゴート]]王[[アラリック2世]]を破った。この勝利で勢いをつけたクロヴィスはそのまま西ゴート王国の首都[[トゥールーズ]]まで進軍し、[[アキテーヌ]]の大部分を獲得した<ref>フランス史、p.137-138。</ref>。フランク王国の領土は[[北海]]から[[ピレネー山脈]]まで大きく拡張され、[[南フランス]]を支配していた西ゴート王国は[[イベリア半島]]に押し込められた。この遠征の後、クロヴィスは東ローマ皇帝[[アナスタシ1世]]から[[執政官]]に任命された<ref>フランス史、p.138。</ref><ref>R.ミュソ=グラール、p.112。</ref>。[[508年]][[パリ]]に[[都]]を定め、[[セーヌ川]]左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院(のちの[[サント=ジュヌヴィエーヴ修道院]])を築いた。その遺構は今も[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]近くに[[クロヴィス塔]]として残る。
 
クロヴィスは晩年フランク人の小王を次々に姦計にかけ、そのほとんど全てを抹殺した。それによりメロヴィング朝は他の家系から脅かされることなく、300年近い命脈を保ったと言われている。
 
クロヴィス1世は[[511年]][[11月27日]]に死去し、パリの北方4キロほどの街、サン=ドニにある[[サン=ドニ大聖堂]]に埋葬された。その遺領はフランク人特有の財産均等分割相続の習慣に従い、4人の息子[[テウデリク1世|テウデリク]]、[[クロドメール]]、[[キルデベルト1世|キルデベルト]]、[[クロタール1世|クロタール]]に分割され、メロヴィング王朝に混乱をもたらした。フランス人の伝統によれば、パリに都したクロヴィス1世は[[フランス王国]]の基礎を築いた最初のフランス王であった。クロヴィスの生涯は[[トゥールのグレゴリウス|トゥール司教グレゴリウス]]が詳細な年代記を残している。
 
== 子女 ==