「伊東重孝」の版間の差分

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元政上人はあくまで通称、仙台市の県名も明記
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重孝は、[[儒教|儒学]]を[[仙台藩]]の[[内藤閑斎]](以貫)、京都にて[[陽明学]]を[[熊沢蕃山]]、[[江戸]]にて[[兵学]]を[[小櫃与五右衛門]]と[[山鹿素行]]にそれぞれ学ぶ。一方で深草にて[[日蓮宗]]の[[僧]]・[[日政]](元政上人)に国学を学び、文学にも通じていた。また、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節をたっとぶ直情実践の士であった。熊沢蕃山に学んだ陽明の知行合一の学風をよく受け継いでいたといえる。
 
伊達氏仙台藩の寛文事件([[伊達騒動]])において、重孝は伊達家の安泰のために対立する[[一関藩]]主・[[伊達宗勝]]を討つことを伊東采女重門と謀ったが、事前に計画が漏れて捕縛された。重孝は入牢の日より絶食し、処刑の日が近づいたのを知るや「人心惟危、道心惟微、惟精惟一、誠厥執中。古語云、身をば危すべし、志をば奪べからず。又云、殺べくして、恥しめべからず。又云、内に省てやましからず、是予が志也。食ヲ断テ、卅三日目ニ書之也 罪人重孝」と書いて小人組万右衛門に与えた。これを書いた4日後の4[[寛文]]8年(1668年)4月28日、死罪を申し渡された。寛文8年(1668年)4月28日に誓願寺河原にて処刑された。また一族は、御預け・切腹・流罪・追放となった。
 
重孝の死により、世間は伊達宗勝の権力のあり方に注目し、また江戸においては、文武に優れ気骨ある武士と評判の人物・重孝の処刑がたちまち評判となった。そのため伊達宗勝の権力は陰りを見せいった。そして[[寛文]]11年([[1671年]])2月28日、涌谷領主[[伊達宗重]]の上訴により伊達宗勝一派の藩政専断による宿弊、不正、悪政が明るみとなり、宗勝や[[原田宗輔]]たち兵部一派が処分され伊達家の安泰に及び、重孝の忠烈が称えられた。[[延宝]]元年([[1673年]])3月18日に、重孝の兄・重頼の子である伊東重良兄弟3人が流罪赦されて、延宝3年([[1675年]])5月[[伊達綱村]]の御世に伊東家は旧禄に復し再興された。
 
遺骸は阿弥陀寺([[宮城県]][[仙台市]]若林区新寺)に葬られたと伝えられ、のちに伊東家の菩提所である栽松院(仙台市若林区連坊)に伊東七十郎重孝の墓として祀られている。法名は鉄叟全機居士。また、当時の人々が重孝の供養のため建立した「縛り地蔵尊」(仙台市青葉区米ヶ袋)は「人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる」と信仰され、願かけに縄で縛る習わしがあり、現在も毎年7月23、24日に縛り地蔵尊のお祭りが行われている。さらに[[昭和]]5年([[1930年]])、桃生郡北村(宮城県[[石巻市]]北村)に、重孝神社が創建されその霊が祀られている。
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