「ルイ6世 (フランス王)」の版間の差分

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== 生涯 ==
父フィリップ1世が[[教皇|ローマ教皇]][[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]と対立して破門されて失意に落ちたため、王になる前から国の実権を握っていた。王太子時代の1104年、[[リュシエンヌ・ド・ロシュフォール]]と結婚したが子に恵まれず、1107年に離婚した。1108年、父の死により王位を継いで即位する。ルイ6世はフランス諸侯の反乱に苦しめられたが、幼少時からの親友である[[シュジェール]](聖職者で、サン=ドニ大修道院院長)を政治顧問として重用し、宗教政策による諸侯の統率、父の代から対立するイングランドとの交渉などを行なって、国内の安定化に努めた。
 
しかし諸侯の統率は今ひとつまとまっていなかったため、時の[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]の侵攻を受ける。フランスは危機に陥ったが、シュジェールは[[パリのディオニュシウス|聖ドニ]]の軍旗である「オリフラム」を掲げることで、信仰心ということからフランスの諸侯を参集させてまとめ上げ、これを撃退することに成功した。また、シュジェール主導のもと、[[修道院]]改革なども行なわれている。