「パラグアイ戦争」の版間の差分

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|combatant2= [[ファイル:Flag of Uruguay.svg|25px]] [[ウルグアイ]]<br>[[ファイル:Flag of Argentina.svg|25px]] [[アルゼンチン]]<br>[[ファイル:Flag of Empire of Brazil (1870-1889).svg|25px]] [[ブラジル帝国]]
|commander1= [[ファイル:Flag of Paraguay.svg|25px]] [[フランシスコ・ソラーノ・ロペス]]<br> [[ファイル:Flag of Paraguay.svg|25px]] [[ホセ・エドゥギビス・ディアス]]
|commander2= [[ファイル:Flag of Empire of Brazil (1870-1889).svg|25px]] [[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ドン・ペドロⅡ世]]<br> [[ファイル:Flag of Empire of Brazil (1870-1889).svg|25px]] [[カシアス公]]<br>{{Flagicon|Argentina}} [[{{仮リンク|バルトロメ・ミトレ]]|es|Bartolomé Mitre|en|Bartolomé Mitre}}<br>{{Flagicon|Uruguay}} [[{{仮リンク|ベナンシオ・フロレス]]|es|Venancio Flores|en|Venancio Flores}}
|strength1= 開戦時に63,000人
|strength2= 開戦時に26,000人
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その後[[コロラド党 (ウルグアイ)|コロラド党]]と[[ブランコ党]]の対立がそれぞれ二大国の支援を仰ぐことになり、大アルゼンチンを目指してウルグアイの併合を目論んだ[[アルゼンチン連邦]]の[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]がブランコ党を支援し、ロサスと敵対していたブラジル帝国、イギリス、[[フランス]]がコロラド党を支援するという構図の[[大戦争]]が勃発した。
 
戦争半ばからはブランコ党が優位だったが、1851年にコロラド党、ブラジルと同盟した[[フスト・ホセ・デ・ウルキーサ]]の手で、[[モンテビデオ]]を包囲していたブランコ党が破られると大戦争が終わり、翌1852年の[[カセーロスの戦い]]でロサスは失脚した。その後コロラド党とブランコ党の挙国一致政権が出来るがこれもすぐに崩壊し、1854年にコロラド党の[[{{仮リンク|ベナンシオ・フロレス]]|es|Venancio Flores|en|Venancio Flores}}が大統領に就任したものの、その後もコロラド党とブランコ党の対立が内戦に発達する要素は保っていた。
 
=== アルゼンチンの事情 ===
[[ファイル:BartolomeMitre002.JPG|thumb|220px|{{仮リンク|バルトロメ・ミトレ|es|Bartolomé Mitre|en|Bartolomé Mitre}}]]
アルゼンチンでは[[フランス]]、[[イギリス]]との[[大戦争]]を戦い抜いた[[フアン・マヌエル・デ・ロサス|ロサス]]がカセーロスの戦いで、ブラジル、コロラド党と同盟した[[エントレ・リオス州]]出身の[[連邦同盟|連邦派]]のカウディージョ、[[フスト・ホセ・デ・ウルキーサ|ウルキーサ]]に敗れると、[[1852年]]にウルキーサが[[アルゼンチン連合]]を主催し、[[1825年]]以来の中央政府が樹立される。しかし、[[ブエノスアイレス州]]はアルゼンチン連合への加入を拒否し、1861年9月に[[{{仮リンク|バルトロメ・ミトレ]]|es|Bartolomé Mitre|en|Bartolomé Mitre}}州知事がウルキーサを[[パボンの戦い]]で破ると、アルゼンチン連合とブエノスアイレス州を合併し、[[1862年]]10月には自らその大統領になった。ここにアルゼンチン初の国土統一が成ったのである。こうしてアルゼンチンの急速な西欧化が始まった。
 
自由主義者で欧化主義的な傾向があったミトレは、当時のラテンアメリカの自由主義者の典型例のように、[[ガウチョ]]や[[カウディージョ]]や[[インディオ]]のようなスペイン的なもの、土着的なものを、野蛮で劣ったものとみなし、一方で内陸部のカウディージョもミトレに対しての反発を抱き、既にミトレが大統領になる前の1862年2月には「チャーチョ」と呼ばれて民衆に親しまれていたカウディージョ、[[アンヘル・ペニャローサ]]が[[ラ・リオハ州 (アルゼンチン)|ラ・リオハ州]]から蜂起した。
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== ウルグアイの内戦 ==
[[大戦争]]のように、ウルグアイの二大政党がそれぞれアルゼンチン・ブラジルの支援を受けての内戦を繰り広げるという構図は既に述べたが、1854年に成立したコロラド党の{{仮リンク|ベナンシオ・フロレス|es|Venancio Flores|en|Venancio Flores}}政権は翌年[[クーデター]]で崩壊し、1860年にはブランコ党のベルナルド・ベロ政権が誕生する。
 
これに対してベナンシオ・フロレスは1863年4月にアルゼンチンのバルトロメ・ミトレ大統領の支援を受けてウルグアイに侵攻した。ミトレはかつて自分や、仲間の自由主義者を追放した憎むべきロサスに支援されていたブランコ党を許せなかったのだ。ブラジルもそれまでの伝統的友好関係から、ブランコ党がブラジルで牛泥棒をしたことを口実にして、1863年12月に公然とコロラド党を支援すると、後がなくなったブランコ党の[[アタナシオ・アギレ]]政権は1864年3月、遂にパラグアイに助けを求めることになる。
 
ソラノ・ロペスは当初はこの要請を退けようとしたが、次第にブラジル、アルゼンチンのニ大国に挟まれて消滅しかかっているウルグアイの運命は、明日のパラグアイなのではないかと考えたようだった。こうしてソラノ・ロペスは1864年8月、ブランコ党を支援するためには戦争をも辞さない覚悟をブラジル公使に伝える。
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== 開戦とロペスの誤算 ==
本格的な陸戦は、[[1864年]]11月に[[パラグアイ軍]]が[[ブラジル帝国]]との係争地域だった[[マットグロッソ州]](現在の[[マットグロッソ・ド・スウ州]])に侵攻することにより開始された。6,000の兵力で侵攻したパラグアイ軍は、翌12月にはブラジルの要衝コインブラやコルンバを占領することに成功した。さらには南下して[[ウルグアジャーナ]]にまで至り、征服した地域をアルト・パラグアイ県として国土に編入する。しかし、ここで[[ソラノ・ロペス]]の計画に誤算が生じた。ロペスはアルゼンチンの[[{{仮リンク|バルトロメ・ミトレ]]|es|Bartolomé Mitre|en|Bartolomé Mitre}}大統領に領土通行権を求め、アルゼンチン反体制派の指導者[[フスト・ホセ・デ・ウルキーサ]]と密約して、もしアルゼンチンが通行権を認めないなら、ウルキーサが[[アルゼンチン連邦派]]をまとめて反乱を起こすことを取り決めていたのだが、この密約がウルキーサに反故にされたのだ。
 
ソラノ・ロペスはウルキーサに決起を迫ることを目的に、[[1865年]]3月に入るとパラグアイは1万の兵力によりアルゼンチンにも侵攻を開始し、翌4月には[[コリエンテス]]を占領する。しかし、それでもウルキーサは動かなかった。
 
== 三国同盟の結成 ==
1865年4月、ウルグアイでも当初ロペスに内政干渉からの助けを求めた[[ブランコ党]]のアギレ政権が崩壊した。コロラド党の[[{{仮リンク|ベナンシオ・フロレス]]|es|Venancio Flores|en|Venancio Flores}}がブラジル軍と共にモンテビデオを占領したのだ。
アルゼンチン、ブラジルの支援で政権についたコロラド党はパラグアイに宣戦布告するに至り、1865年5月にはイギリスの監督と影響の下でアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟が結ばれる。