「パラグアイ戦争」の版間の差分

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アルゼンチンでは[[フランス]]、[[イギリス]]との[[大戦争]]を戦い抜いた[[フアン・マヌエル・デ・ロサス|ロサス]]がカセーロスの戦いで、ブラジル、コロラド党と同盟した[[エントレ・リオス州]]出身の[[連邦同盟|連邦派]]のカウディージョ、{{仮リンク|フスト・ホセ・デ・ウルキーサ|en|Justo José de Urquiza|label=ウルキーサ}}に敗れると、[[1852年]]にウルキーサが[[アルゼンチン連合]]を主催し、[[1825年]]以来の中央政府が樹立される。しかし、[[ブエノスアイレス州]]はアルゼンチン連合への加入を拒否し、1861年9月に{{仮リンク|バルトロメ・ミトレ|es|Bartolomé Mitre|en|Bartolomé Mitre}}州知事がウルキーサを{{仮リンク|パボンの戦い|es|Batalla de Pavón|en|Battle of Pavón}}で破ると、アルゼンチン連合とブエノスアイレス州を合併し、[[1862年]]10月には自らその大統領になった。ここにアルゼンチン初の国土統一が成ったのである。こうしてアルゼンチンの急速な西欧化が始まった。
 
自由主義者で欧化主義的な傾向があったミトレは、当時のラテンアメリカの自由主義者の典型例のように、[[ガウチョ]]や[[カウディージョ]]や[[インディオ]]のようなスペイン的なもの、土着的なものを、野蛮で劣ったものとみなし、一方で内陸部のカウディージョもミトレに対しての反発を抱き、既にミトレが大統領になる前の1862年2月には「チャーチョ」と呼ばれて民衆に親しまれていたカウディージョ、[[{{仮リンク|アンヘル・ペニャローサ]]|es|Ángel Vicente Peñaloza|en|Ángel Vicente Peñaloza}}が[[ラ・リオハ州 (アルゼンチン)|ラ・リオハ州]]から蜂起した。
 
「チャーチョ」は1863年11月に連邦軍に捕らえられ、処刑されたが、パボンの戦いで敗れたウルキーサは失脚したものの、こうした不満を持つ連邦派の[[カウディージョ]]の統領として未だに影響力を保っていた。