「或る「小倉日記」伝」の版間の差分

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Chokinhei (会話 | 投稿記録)
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== ストーリー ==
<!--原作のあらすじ-->
 [[1938年]](昭和13年)田上耕作(たがみこうさく)は生まれつき神経系の障害で片足が麻痺しており、口が開いたままで言葉をうまくしゃべれない。ただ知的障害はなく、むしろ勉学に秀でており、小中と優秀な成績をおさめる。<br>彼の母方の父が立てた貸し家には貧しい一家が住んでおり、そこのじいさんは電便(でんびん)を仕事にしていた。耕作は朝方にじいさんが鈴を鳴らしてやがて消えてゆくのを、子どもながらにはかない気持ちで聴いていた。
 
 彼の母方の父が立てた貸し家には貧しい一家が住んでおり、そこのじいさんは電便(でんびん)を仕事にしていた。耕作は朝方にじいさんが鈴を鳴らしてやがて消えてゆくのを、子どもながらにはかない気持ちで聴いていた。<br>
 耕作には中学以来、江南(えなみ)という友人がいた。江南は文学青年で、商社に勤めだしても就業中に詩を書くような男だった。ある日、江南は[[森鴎外]]の作品『独身』を耕作にすすめる。それを読んだ耕作は感動する。というのも、自分が子どもの頃に聴いていた電便のことが書かれていたからだ。<br>耕作は生涯賃金の出る仕事にはつけなかった。母の裁縫と家賃収入で暮らしていた。が、江南のつてで目録作りの仕事を始める。江南が紹介したのは病院経営者の白川だった。白川は文学青年の集まるグループの中心的人物であり、芸術的蔵書を多く保有しいた。その蔵書の目録作りを耕作は手伝うことになる。ただ、手伝うといっても本の整理はもう一人の者がやるので、耕作はほとんど蔵の書を読んでいた。
 
 耕作は生涯賃金のでる仕事にはつけなかった。母の裁縫と家賃収入で暮らしていた。が、江南のつてで目録作りの仕事を始める。江南が紹介したのは病院経営者の白川だった。白川は文学青年の集まるグループの中心的人物であり、芸術的蔵書を多く保有しいた。その蔵書の目録作りを耕作は手伝うことになる。ただ、手伝うといっても本の整理はもう一人の者がやるので、耕作はほとんど蔵の書を読んでいた。<br>
 ほどなくして、白川のグループでは資料を元に郷土の情報を発信する活動が流行り始める。それを見た耕作は、森鴎外が小倉で過ごした満三年の日記、『小倉日記』を補完することを思いつく。<br>耕作は、『独身』、『鶏』、『二人の友』などの文献から小倉での鷗外の足跡を推測し、ゆかりの人物を取材する。麻痺のある身体で荒れた山道はこたえる。その上目当ての家の者には門前払いにあい、翌日母ともう一度訪れるという不遇を味わう。幾度となく、「こんなことに意義はあるだろうか」という思いが押し寄せ彼を苦しめるが、江南や母の激励、文士からの返信、またそのつながりで鴎外の弟潤三郎からも手紙をもらい、耕作は一層力を尽くす。
 
 耕作は、『独身』、『鶏』、『二人の友』などの文献から小倉での鷗外の足跡を推測し、ゆかりの人物を取材する。麻痺のある身体で荒れた山道はこたえる。その上目当ての家の者には門前払いに合い、翌日母ともう一度訪れるなんていう不遇を味わう。幾度となく、「こんなことに意義はあるだろうか」という思いが押し寄せ彼を苦しめるが、江南や母の激励、文士からの返信、またそのつながりで鴎外の弟潤三郎からも手紙をもらい、耕作は一層力を尽くす。<br>
 そんな耕作に戦争が立ちふさがる。戦時下では鴎外ゆかりの者に話を聞くのは困難だった。また、耕作の麻痺症状は日に日に進んでいたのだが、戦後は食糧不足でさらに悪化し、ついには寝たきりになってしまう。<br>江南は度々耕作の家を訪れ、食料を持ってくる。母は老体ながらも耕作を看病する。耕作は病状が改善したあとを空想した。風呂敷一杯には彼のあつめた「小倉日記」がある。
 
 江南は度々耕作の家を訪れ、食料を持ってくる。母は老体ながらも耕作を看病する。耕作は病状が改善したあとを空想した。風呂敷一杯には彼のあつめた「小倉日記」がある。<br>
 しかし、1950年(昭和25年)の暮れ、耕作の衰弱が激しくなる。江南がちょうど来ていた日だ。耕作が枕から頭を上げて、聞き耳を立てる仕草をするので、母が「どうしたの?」と訊く。もうほとんど口がきけなくなっていたが、彼ははっきりと言った。鈴の音が聞こえる、と。それは死ぬ者が味わう幻聴のようだった。<br>次の日、耕作は息を引き取る。
 しかし、昭和25年の暮れ、耕作の衰弱が激しくなる。<br>
 
 江南がちょうど来ていた日だ。耕作が枕から頭を上げて、聞き耳を立てる仕草をするので、母が「どうしたの?」と訊く。もうほとんど口がきけなくなっていたが、彼ははっきりと言った。鈴の音が聞こえる、と。それは死ぬ者が味わう幻聴のようだった。<br>
 次の日、耕作は息を引き取る。翌年の二月、鴎外の一族が『小倉日記』の原本を発見する。日記の出現を知らずに耕作が死んだのは、幸か不幸かわからない。
 
== エピソード ==
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