「ロシア・ツァーリ国」の版間の差分

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ロシアは17世紀を通じて領域拡大を続けた。南西部では、それまで[[ポーランド・リトアニア共和国]]の支配下にあった[[ウクライナ]]を獲得した。[[ザポロージャ・コサック]]の戦士たちは軍団を組織し、ポーランド、[[クリミア・ハン国|クリミア・タタール]]、ロシアが国境を接するフロンティア地域に暮らしていた。[[登録コサック]]軍としてポーランド軍に従軍していたにもかかわらず、ザポロージャ・シーチのコサック達は強く独立を望み、ポーランドに対する反乱を繰り返していた。
 
1648年、[[フメリヌィーィクィイキーの反乱]]が起きると、ポーランド支配下で社会的・宗教的圧迫に苦しんでいたウクライナの農民たちもこれに加わったため、反乱はかつてない大規模なものとなった([[大洪水時代]])。またウクライナ人たちは[[クリミア・ハン国|クリミア・タタール]]と同盟し、ポーランド支配からの脱却を目指した。その後、クリミア・タタールがポーランドに寝返ると、独立を保てなくなったウクライナ人は他国に軍事援助を求める必要に迫られた。
 
1654年、ウクライナの指導者[[ボフダン・フメリニツキー]]は、ロシアのツァーリ・[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]]に対し、ウクライナ地方に対する保護を求めた。アレクセイの承認は1654年の[[ペラヤースラウ会議 (1654年)|ペレヤスラフ条約]]で発効し、ポーランドとロシアの長期にわたる戦争を引き起こした([[ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)|ロシア・ポーランド戦争]])。休戦条約である1667年の[[アンドルソヴォ条約]]は、ウクライナを[[ドニエプル川]]流域に沿って二分割し、西部地域([[右岸ウクライナ]])をポーランド領に戻し、東部地域([[左岸ウクライナ]])を[[ヘーチマン国家]]として分離した上で、同地域をツァーリの宗主権下にある自治領とした。[[1670年]][[6月24日]]、[[スチェパン・ラージン]]が反乱を起こし、[[アストラハン]]で[[コサック]]共和国を宣言。[[1671年]]にラージンは捕らえられ、[[モスクワ]]の[[赤の広場]]で処刑された。