「中山門流」の版間の差分

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'''中山門流'''(なかやまもんりゅう)は、[[日蓮]]系の諸[[宗派]]のうち、日蓮の有力壇越のひとり一人後にその門人となった[[日常 (僧侶)|日常]]の法脈を継承する[[法華経寺]](総本山)とその[[末寺]]に対する総称のひとつ。古くは'''若宮門徒'''(わかみやもんと)と号した。[[中世]]~[[近世]]以来もちいられてきた古くからの総称としては、他に'''日常門流'''とも称される
 
初代である日常(富木常忍)は、元々[[千葉氏]]の[[被官]]として[[下総国]][[八幡荘 (下総国)|八幡荘]]を管理していた。彼が若宮(現在の[[市川市]][[若宮 (市川市)|若宮]])の自邸に建立したのが「'''法花寺'''(法華寺)」である。当初は若宮に拠点があったことから、ここに集った[[僧侶]]や[[門徒]]を「若宮門徒」と言った。日常は千葉氏の[[家臣]]であった[[太田乗明]]の子で日蓮面授の門人[[日高 (僧)|日高]]を後継者(2世)とした。日高は若宮の隣村である中山(現在の市川市[[中山 (市川市)|中山]])の父の屋敷を「'''本妙寺'''」としここに居住し2つの寺を管理して、後に[[弘法寺 (市川市)|弘法寺]]も傘下に入れて3ヶ寺による「中山門流」が形成される事になった。そして、本妙寺の貫首が法花寺の貫首を兼務して中山門流の指導者となる慣例は日高以来代々受け継がれて、[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])に両寺を統合する寺号として[[古河公方]][[足利晴氏]](天文14年1月20日付書状)から贈られたのが今日の「法華経寺」であるとされている。
 
日高は八幡荘の[[領主]]で父・太田乗明や師・日常にとっては旧主にあたる[[千葉頼胤]]の嫡孫[[千葉胤貞|胤貞]]を[[俗別当]]として政治的な保護を受けた。また、胤貞の[[猶子]][[日祐]]を後継者(3世)としたが、日祐は僧侶としての識見にも優れており、門流発展に大きく貢献した。中山門流は有力[[守護]]・[[御家人]]であった[[千田氏|胤貞流千葉氏]]の保護を受けた事で[[南関東]]全域や[[京都]]、あるいは胤貞が[[地頭]]を務めた[[肥前国]]に多くの末寺が建立された。これらの末寺には法華経寺から「総導師職」が派遣されて指導にあたり、優れた学僧を輩出したため、大いに栄えた。
 
だが、[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の戦乱期に仏教集団が政治的影響を受けていく事ることは避けられない事であ情勢となり、日蓮の諸系統でも生き残りを図るために同様の事が行われた。特に中山門流においては敵対関係にあった[[千葉貞胤|貞胤]]流千葉氏が台頭したため危機を迎え、[[室町時代]]に弘法寺は貞胤流の千葉氏[[宗家]]と結び[[門流]]を離脱した。このため、法華経寺をはじめとして厳格な修行で知られた中山門流が様々な政治勢力や他宗派とも交流(例えば、[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])に法華経寺の寺宝である[[立正安国論]]が[[律宗]]寺院であった鎌倉・普恩寺(現在は廃絶)に貸し与えられて書写されたという記録がある)、庶民信仰を積極的に受け入れる選択も行っをしたのも教団そのものが生き残ることで日蓮の教えを守り、後世に伝える事を最優先した結果であった。だが、これに対する批判も強く、[[日英 (中山門流)|日英]]門下の[[日親]]が「[[不受不施義]]」を唱えた背景には、こうした門流のあり方への反発があったと言われている。
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入ると、[[室町幕府]]の衰退とともに中山門流も衰微し、[[徳川家康]]の[[江戸城|江戸]]移封後には法華経寺寺宝の大量流出が明らかとなった。これに激怒した家康は[[安土宗論]]でも知られる[[日珖]]を法華経寺貫首として送り込み、以後[[本法寺 (京都市)|本法寺]]・[[頂妙寺]]・[[妙国寺]]の[[上方]]3ヶ寺の持ち回りで法華経寺貫首を選ぶこととしてこれまで門流の中枢を占めていた関東系諸寺の影響力を削減した。とはいえ、これによって[[江戸幕府]]の保護を得る事に成功した中山門流は[[寛永]]年間には132の末寺を擁するに至り、特に法華経寺は[[祈祷]][[修法]]の[[霊地]]として名声を得るに至った。
 
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