「古典園芸植物」の版間の差分

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日本の園芸文化は本来中国のそれの影響を受けている。中国では[[唐]]代に[[ボタン (植物)|ボタン]]が盛んにもてはやされ、育種も進んだ。また[[ウメ]]や[[モモ]]なども花を愛でることが行なわれた。[[宋 (王朝)|宋]]代には[[シャクヤク]]の育種が進み、また[[中国春蘭]]が[[文人]]思想と共に愛された。このほかキクや[[ハス]]、[[フヨウ]]など、中国で観賞植物化したものは多い。これらはその都度日本にももたらされ、[[貴族]]や[[武士]]、[[僧侶]]などの[[趣味]]として定着していた。中国[[華北]]から[[華南]]にかけての植物は日本の気候にも適応しやすかったと思われる。一方で平安時代にはすでに[[サクラ]]や秋草への愛好が見られ始め、日本独特の園芸文化が発展して行くことになる。[[鎌倉時代]]には盆養が普及し、[[室町時代]]には[[東洋ラン|中国蘭]]が愛好されていたほか、すでにサクラや[[ツツジ]]、[[ツバキ]]に多数の品種が生まれつつあった。
 
江戸時代はことのほか園芸が発達するが、その要因として、もともと[[江戸幕府]]の歴代[[征夷大将軍|将軍]](特に[[徳川家康|初代]]から[[徳川家光|三代]])が非常な花好きであり、その影響が大きいとされる。ただし前述のようにその素地ははるかに以前より存在していたと言える。将軍への献上等のために各[[藩]]は自慢の植物を「お留花」として門外不出とし、散逸を厳しく制限することもあった。しかし江戸時代全般を通じ[[参勤交代]]や[[交通]]、[[流通]]の発展により各地の植物が行き来して、[[三都]]をはじめ各都市に集積した。また[[大都市]]近郊には大規模な園芸商が興隆し、都市の園芸植物の需要に応えていた。江戸近郊の[[染井村|染井]]もそのような園芸商集積地の一つで、中でも伊藤家は代表的な園芸商のひとつであり、代々、広大な[[江戸城]]や大名屋敷、旗本屋敷に種苗を供給する役目を果たしたり、園芸書も多数刊行している。サクラの[[ソメイヨシノ]]も染井で生まれたという説が有力である。
 
更には[[本草学]]の発展とも関連し、園芸は全国的な展開を見た。またごく初期には[[上方]]で発展が始まったことは他の文化と同様であるが、かなり早くから江戸でも発展が見られたことも特徴で、これは将軍とのつながりからも頷けることである。これら上方や江戸以外でも、[[熊本]]、[[伊勢]]、[[久留米]]、[[名古屋]]などで地域独特の園芸文化も花開いた。熊本の「[[肥後六花]]」(肥後椿、肥後山茶花、肥後菊、肥後芍薬、肥後朝顔、肥後花菖蒲)や伊勢の伊勢菊、伊勢撫子、伊勢花菖蒲、また久留米の[[クルメツツジ]]などは有名である。図譜類、園芸書の出版も相次ぎ、[[音楽]]作品にも「椿尽し」(松島[[検校]]作曲)や「桜尽し」、「つつじ」([[佐山検校]]作曲)(共に[[地歌]]・[[箏曲]])をはじめとして、園芸植物の品種を多数詠み込んだ楽曲がいくつも作られたりもした。例えば「椿尽し」にはツバキが22品種も詠み込まれている。これらを見ても当時、園芸がいかに文化として大きな地位を築き上げていたかが想像できる。