「エリエル・サーリネン」の版間の差分

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[[ファイル:Haga vy.jpg|thumb|150px|left|ヘルシンキのムンキニエミ・ハーガ住宅地開発計画の模型、[[1915年]]、費用の問題などから結局実現されなかった]]
[[都市計画]]分野でも活躍し、1910年からのヘルシンキ中央駅周辺整備計画から、1911年には[[ハンガリー]]の[[首都]][[ブダペスト]]の都市計画顧問をつとめ、1912年、オーストラリア連邦首都[[キャンベラ]]計画の[[建築設計競技|コンペ]](Commonwealth of Australia Federal Capital Competition)では[[ウォルター・バーリー・グリフィン]]に続いて2等に入選、[[エストニア]]・[[タリン]]の再開発都市計画[[建築設計競技|コンペ]]では見事1等に輝く。母国フィンランド独立後は首都ヘルシンキの都市計画顧問をめる。1915年、ムンキニエミ・ハーガ住宅地開発計画を担当し、1918年には大ヘルシンキ計画チ-レンハラディプランを発表した。
 
[[1922年]]、[[シカゴ・トリビューン]]社の本社屋、[[トリビューン・タワー]]の国際[[建築設計競技]]が行われ、サーリネンは二位を獲得した。水平の線を廃して上へと伸びる垂直線を強調し、上層部になるほどセットバックして細くなる彼のデザイン<ref>http://www.bc.edu/bc_org/avp/cas/fnart/fa267/20th/tribune_saarinen.jpg</ref>は一位になれず実現しなかったものの、屋上を押さえつけるように[[コーニス]]を配したそれまでの箱型の高層ビルとは異なる、ゴシック的で上昇感の強いデザインはアメリカの建築界に衝撃を与え、以後アメリカ各地にサーリネンのデザインを模した上に向かって細くなる超高層ビルデザインが氾濫した。トリビューン・タワー設計を機に彼は家族とともに翌[[1923年]]アメリカに移住し、[[ミシガン州]]を拠点に設計・教育活動を続けた。