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=== 戊辰戦争における攻防戦と落城 ===
[[幕末]]の築城にも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験している。[[1868年]]([[明治]]元年)秋、[[蝦夷]]が島に独立政権樹立を目指す旧幕府の[[榎本武揚]]を首領とする軍勢は、官軍の拠点である[[渡島半島五稜郭]]の各地を制圧した後、[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]にはもと新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。松前藩の軍は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城した。これは、[[函館湾]]からの旧幕府軍軍艦の艦砲射撃もさることながら、城の構えがあまりに脆いものであったためである。長沼流の軍学者であった市川は、大手門からの通路は曲がりくねって鉄砲の的になりやすい効果的な構えとしたが、搦手方は敵は攻めてこないものとして、直線に通路が続き[[鉄砲]][[狭間]]も少ない防御力の低い配備としていたのである。これを土方に衝かれた形となってしまった。現在も石垣にこのときの弾痕がいくつも残っている。
 
しかし、翌[[1869年]]に榎本らの政権は降伏し、再び松前城は松前氏の領有となり、[[1871年]](明治4年)の[[廃藩置県]]の施行により城は明治政府の領有となった。[[1875年]](明治8年)には天守など本丸の施設を除くほとんどの建築物が取り壊された。