「溝口宣知」の版間の差分

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[[寛永]]5年([[1628年]])に[[徳川秀忠]]に初目見えをする。同年、父宣勝の遺領のうち[[越後国]][[蒲原郡]]の4500石を分与されて、知行地に[[陣屋]]を設ける。宣知の陣屋は当初水原(現[[新潟県]][[阿賀野市]])に置かれたが、のち[[正保]]元年([[1644年]])に二ツ堂(現新潟県[[新発田市]]二ツ堂)に移転した。これにより宣知の家は二ツ堂溝口家と称された。[[明暦]]元年([[1655年]])には[[下館城]]の在番を勤める。[[万治]]2年([[1659年]])に42歳で歿。法名は宗全。[[江戸]]駒込の[[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]]に葬る。宣知には男子がなく、その家は一代で断絶となった。
 
{{DEFAULTSORT:みそくち  のふとも}}
[[Category:溝口氏|のふとも]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:新発田藩の人物]]
[[Category:1618年生]]
[[Category:1659年没]]