「イクノ・アムラク」の版間の差分

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== 生涯 ==
画像http://am.wikipedia.org/wiki/%E1%88%B5%E1%8B%95%E1%88%8D:YikunoA1.jpg
その事跡については、ほとんどが[[口承文学|口承伝承]]で伝わっている。共通しているのは、母親は、[[サガラット]]地方、現在の[[アムハラ]]地方のDessie Zuria woredaに当たる場所を支配した[[アムハラ人]]の首長に仕える女奴隷であったという。イクノ・アムラクは[[エチオピア高地]]でもやや東よりに位置する[[ハイク湖]](Hayq)、[[アンバ・セル]]の近くにあるイスティファノス[[修道院]]で教育を受けた。イスティファノス修道院では、[[テクレ・ハイマノット|聖テクレ・ハイマノット]](英;Takla Haymanot)が彼を教育したという。また聖テクレ・ハイマノットは、イクノ・アムラクが[[ザグウェ朝]]を倒すのに協力したとされる。しかしこれについては、イギリスの歴史家[[G.W.B.ハンティングフォード]]は、聖職者たちが政治的に深い役割を果たしたとしたら、ソロモン朝と関係の深かったイスティファノス修道院長の[[イエズース=モア]]によって美化された話であると批判する。